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ASOBIJOSの珍道中㉘:夜のシフトを。

 今度は夜のシフトです。出勤時間の17時の10分前には、着替えや手洗いを済ませ、ステンレス製の扉を蹴飛ばして、『TIMES』のダイニングホールへと入りました。
 バーカウンターにはマネージャーのカイランが、赤いネルシャツに、なにかの洒落たロゴの入った黒いベースボールキャップの鍔(つば)を平らにして被った姿で立って、カクテル用のベリーソースやライムスライスの仕込みをしているところでした。BGMには、流行りの、くすんでこもったローファイサウンドの緩やかなビートに、脱色された音色のバイオリンのような弦楽器や、ソウルフルなコーラスが層を成して重ねられた音楽が流れ、高い天井の四隅に取り付けられた大きなステレオから、まろやかでこざっぱりとした空気が、ひらららと漂ってきて、充満していました。

 ”やぁ。このキャンドルをテーブルの上のドライフラワーと入れ替えて、灯してくれないか”
 と、言われるがままに頷いて、私はテーブル席を回りながら、2、3組、ミントとラベンダーのハーブティーなんかを楽しんでいるお客さんに挨拶をしながら、ドライフラワーの入った陶器製の丸く小さな花生けと、細く黒縁の取っ手のついた、ぷっくりとしたガラス製の燭台を入れ替え、一つ一つに火を灯して回りました。
 照明は各テーブルごとを照らすスポットライトのみに切り替えられ、店内に並べられたソファのブース席の一つ一つが、薄闇の膜を得て、一層親密な雰囲気をまとい始めました。

 そこに、ドタんッ!っと、ステンレス製の扉を人一倍強く蹴飛ばす音が響いてきました。
 振り返ると、紫色の長い髪を三つ編みにして、まつ毛をくるりと巻き上げて、ぷるりと口紅を塗った若い女の子が、はあはあと息を切らせながら入ってきました。
 手元の腕時計をちらと見やると、17時を8分も過ぎたところでした。
 ”ギリギリセーフよね。”
 と、とぼけるこの子に向かって、マネージャーのカイランは、
 ”何がだ、レイ。バンルィは10分前に来て、もう一仕事終えてるんだぞ。”
 と横目でギョロリと、つぶやきました。

 ”コニチワ、ワタシワ、レイデス、ヨロシクシマス。”
 と、たどたどしい日本語を口にした彼女は、荒い息を整えながら、カーディガンを脱いで、細い肩紐一本で吊るされたキャミソール姿になると、
 ”ンッ、ンッ”っとすかさずカイランはクビを振り、
 ”スパゲティ・ストラップ(細い肩紐のこと)は禁止ってマニュアルに書いてあるだろう。”
 と、重々しく、低い声で畳みかけました。
 ”わかったわよ。ちょっとしたら上着きるから”
 とパタパタと手のひらで顔を仰ぐ彼女に、
 ”そのゴテゴテのネイルも不衛生だ”
 ”わかった、わかった。これが取れたら短くするって、前言ったでしょ。”
 と、不服そうに、ピアスリングの付いた鼻にシワを寄せ、大きく開いた胸元に、騒々しい谷間を寄せながら、バーカウンターに肘をつくや、スマホをいじり始めました。そのまま、
 ”バンルィ、マニュアルに、『スマホはロッカーに置いておくこと』って書いてあるけど、別にポケットに入れてていいのよ。勤務中にカイランから連絡が入ることもあるんだから。”
 と、ひどく淫猥で、挑発的なステッカーを貼ったスマホを操作しながら、私の方にウィンクをよこしました。

 いやぁ、面白いことになってきた、と眉毛をクイと上げた私は、フガフガと文句を言い続けるカイランが帰っていくのを見送りながら、カトラリーをお酢で殺菌して、一組ずつナプキンで包(くる)みました。
 それからしばらく客入りもなく、静かな時間が流れたので、レイと談笑をしながら、彼女が好きだというアニメの話を聞いたりしました。私はドラえもん以外、何一つ話についていけなくて、申し訳ない気持ちになりましたが、今時、海外に行った日本人ならば、きっとよく味わうものでしょう…。

 そんな話に飽きた彼女は、”お酒やカクテルはわかってる?”
 と言い出し、バーカウンターの中に入って、脚立に上り、あれやこれやとボトルを引っ張り出して、これも、あれも、島内産のウィスキーよ、ラムよ、と、こそこそと、私にテイスティングをさせてくれました。
 ”この、野生のきのこが香りづけがされたシングルモルトウィスキー、うまいなぁ、うまい。あっちの、ラムもよかった。しかし、あんまり酔っちゃまずい”
 ”あなた、日本人でしょう、ウィード(大麻)もロクに知らずに酒ばっかり飲んでるくせに。”
 ”いやいや、そんなこと…”と、反駁(はんばく)する間もくれず、
 ”こっちのタップビールも、ほら、あなた。味もわからずどうやってお客さんに勧めるってのよ”
 と、小グラスに、並々8種類ほど注いで、ズラリと並べ出すので、たまらず私も、
 ”ごもっともですな”
 と、ほいほいと、舌ざわり、口に広がる苦みやまろやかさ、喉を越していった後に鼻から抜ける香りの爽やかさなんかを、ポケットのノートに一々メモを取りながら、
 ”個人的には、このケルプ・スタウトってのが好きだね”
 と、口についた泡を舐めながら頷くと、レイが、ひょろりと口元に垂れてきた細い髪の毛を耳にかけながら、
 ”私、ケルプって日本語でなんていうか知ってるわよ。昔、結構熱心に日本語のレッスン取ってたんだから”
 と目をパチクリとさせ、
 ”ワカァメ…”
 ”いやぁ、ワカメはダメ。ワカメのお酒はダメ。”
 ”なんでよ”
 ”ケルプは『コンブ』って言うんだよ、いいね。ワカメのお酒はダメなの。もうそりゃあ、別の酔い方しちまうから。”
 ”あら、ドラッグ?”
 ”いや、もう、ググってくれ。”

 それから、バターーん!!っと、また人一倍大きくステンレスの扉を蹴飛ばす音が響き渡ると、黒いフード付きのパーカーを着た、男が現れました。
 ”ひょぉお~い!”
 と腑抜けた歓声を自分で上げながら、両手を高く上げて、片方の踵(かかと)をあげてポーズを取ったこの男は、やや長めの坊主頭で、アゴにも口周りにも、うっすらとヒゲをポチポチと生やしており、見事に手づくり黒胡麻団子みたいな顔面をしながら、口角を高く上げて、にんまりと笑いながら、胸元に飛びつくレイを抱き留めました。
 キッチンからはこの店の料理長を務める、パットという大柄なバスケットボール選手のような身体つきをした男も出てきて、まるで、英雄の登場かのように、この男を後ろから抱きしめました。

 それから、レイは、私の方を指差しながら、
 ”聞いて、チャールズ。あの新人のバンルィってば、もうすっかりデキあがってるのよ。私に飲ませろ飲ませろって…。”
 なんてこった…。
 ”こりゃあ、イケないやつだ。このオレがTIMESの給仕っていうのがなんたるか、見せてやるからな。まぁ、見ときなっ。”
 と、肘を振って、アゴをくいっと上げました。

 そうこうするうち、来客がありました。
 赤いロングコートを着た金髪のご婦人と、黒いセーターを着たご婦人の、50歳くらいのペアでした。
 すかさず歩み寄っていったチャールズは、
 ”ようこそ、わが、TIMESレストランへ”
 とバカバカしく両手を広げながら、両の眉毛を高々と上げました。
 ”わぁ、あなたがオーナーなの?何回か来たことがあったけれど、初めてだわ”と、微笑むご婦人方に向かって、
 ”いいえ、私はオーナーでもマネージャーでもなんでもありません、ただの給仕で、しかも、給仕のなかでも最も質の低いサービスを提供する男でございます!”
 と、胸を張りました。
 ”まぁ、それはとてもいい話だわね。”
 と笑いだした二人に向かって、
 ”えぇ、注文したものの半分は、忘れられるか、別のものが来ますが。運に自信があるなら大丈夫!”
 と、堂々と言い切るのでした。

 それから、窓際の席へと案内し、水の入ったグラスとボトルに、メニューを抱えていったチャールズは、馬鹿丁寧に自分の名前を言って、
 ”本日のあなた方の給仕を務めさせていただきます”
 と頷きました。
 ”そうねぇ…、”と、メニューを眺め出したご婦人の一人が、
 ”今日のスペシャルは何?”
 と顔を上げて聞くと、
 ”もちろん、ワタクシがスペシャルです”
 と、この黒胡麻団子、真顔で頷きました。それから、ふっと私の方を振り返って、
 ”バンロィ、本日のスープはなんだ!”
 と声を張り上げました。
 ”はい、バターナッツパンプキンのスープです”
 と、びくっとしながら答えました。
 ”乳製品は!?”
 ”ありません。ヴィーガン(動物性食品は含まない)です!”
 と、答えると、
 ”だそうです。新人が言うんだから間違いありません。”
 と、片方の眉を上げて、お客さんに微笑みました。

 結局、このチャールズとレイは、見事なまでにマニュアルと真逆のことを、立て続けにやってのけたでした。
 「遅刻をするな」「必要以上に客に無駄口を叩くな」「勤務中に酒を飲むな」「手が空いた時にスマホをいじるな」「いかなるつまみ食いもするな」「キッチンに食べ物を乞うなど言語道断」などなど…。

 23時の閉店間際になると、まだ一組の若いカップルのお客さんが、食後のクルミとダークチョコレートのムースをちまちまとティースプーンですくって舐め合いながら、腕を肩に回して、甘言をささやきあっているというのに、そんなこともそっちのけで、料理長のパットと、チャールズと私とレイは、四人でバーカウンターに集まって、テキーラのショットを、グゥっと飲み干して、ライムにかじりついているのでした…。
 ”ダメだぜ、こんなの。新人の初日に!”
 と顔を真っ赤にしながら、後ろに結んだ長い金髪をほどいたパットは、
 ”ったく、戒めにもう一杯。”
 と、空になったショットグラスをレイに差し出すと、
 ”しょうがねぇやつだなぁ、バンロィ!反省しろ!”
 と、チャールズも、黒胡麻のアゴ髭を拭いながら、グラスを差し出しました。
 ”いやぁ!カイランがあのカメラ見てたら、もうおれクビなんじゃないかなぁ。” 
 と笑いながら、私もショットグラスを差し出すと、
 ”大丈夫よ。去年、私が離婚した日なんて、ここでチャールズと二人でテキーラ一本空けたんだから。空になったボトルを置いといたって、カイランは大したこと言いやしなかったわ。”
 とレイは、手を叩いて笑い声をあげました。
 ”そんなに若いのにもう離婚かい”
 と目を丸くする私に、
 ”そうよ。21で結婚して、一緒に住み出したら全然抱いてくれなくなったのよ。5年間で、指の数ほどよ。それでようやく気付いたのよ、ゲイだって!これ、ホント、冗談じゃないわよ?”
 と、テキーラを慌ただしく、カウンターに並んだ4つのショットグラスに、溢れるように注ぎながら、ゲラゲラと大袈裟に笑い声を立てました。
 ”おれだって3年前に別れたぜ。息子はもう6歳。”
 と、チャールズも親指を立てながら言いました。
 ”へぇっ”と頷きながら、私は自分の結婚指輪をなんとなく擦って、また、みんなと乾杯したのでした。振り返ると、すっかり忘れられていたカップルの客は、いつの間にやらデザートも食べ終わって、御手洗いから出て来た彼女の手を彼氏が引いて、私たちのほうに、機嫌よく挨拶をして手を振りながら出ていくと、店の前のY字路に止まったタクシーに乗り込んでいくのでした。
 
 4人でライムをかじりながらそれを見送ると、”さぁ、閉めた、閉めた!”
 と、手を叩き、先輩給仕のチャールズに言われるがまま、ひどく雑なはき掃除と、モップ掛けのやったフリを見事3分足らずで完了させ、そそくさと消灯施錠して、お店を後にしたのでした。
 車に乗り込んでいく彼らを見送って、私はすっかり冷えてきたカナダの晩秋の夜風に首元をくすぐられながら、枯れ落ちて乾いた楓の葉を踏みながら、スタスタと帰っていったのでした。 
 


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