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ASOBIJOSの珍道中㉛:伝えられる島へ
前回から少し遡(さかのぼ)りますが、まだそれほど寒さが厳しくなる前、私たちは、ユウタ・サニー夫妻と一緒に、ナナイモからすぐ近くの小さな離島、ニューキャッスルアイランドへとキャンプをしに行きました。
ナナイモの北方から町の中心地に向かって歩いていくと、深々とした青を湛えてゆれるセイリッシュ海の波音を聞きながら、純白なヨットの帆がここそこで、陽光を受けて一層白く膨らんでいくそばを、地元の子連れや犬連れ、老夫婦たちが、明るく挨拶を交わしながら歩いている遊歩道があって、その途中の、広々とした公園の一角で、[Saysutshun (New castle island)]と書かれた、小さな看板に出くわします。
車が二、三台ほど停まれるくらいの小さなコンクリートのデッキのような乗り場で、そこからさらに、目も疑いたくなるほど小さな、6人も乗ったら満員になってしまうような小舟に乗って、テントやらマットやらを申し訳なさそうに、身体のまわりに抱え込みながら、向かうのです。
”わぁああ~!”と声を上げてスマホを向ける、MARCOさん。
”ウソ―!ウソー!”と飛び上がって、カワウソが目の前まで来て、可愛らしく水面から顔をだし、ひげのピンとした口をモキュモキュとしているのに、喜んでいるのでした。
さて、私たち4人と、他に2人の観光客でぎゅうぎゅうになって揺られた小舟を降りて、島に到着するや、黒く大きなトーテムポールが目を引きました。
さっそく私たちは、島の歴史を伝える先住民の末裔の方のガイドツアーに参加し、ワシが大きく翼を広げた木彫のトーテムポールの前に座って、その語り部に耳を傾けました。
"もともとこの島では、何千年も前から、セイリッシュ海沿岸で生活する人々が暮らしていました。『Saysutshun(*セイサチュワンという音に近い)』と呼ばれていて、癒しや浄化のための特別な場所だったのです。
さて、みなさま…、今日はどちらからいらっしゃったのですかな?”
と目を丸くして、50歳前後と思しき、私たち東洋人とも、どことなく顔立ちの近い印象の男性が、紳士的で丁寧な英語で語ってくれます。
”ナナイモ…。そう、ナナイモという町の名前はもともと、ここに暮らしていた民族の名前からきているのです。ええ、はい、ご存じですかぁ。正確にはSnuneymuxw(*スナナイモゥに近い)と言い、もともとは、『多くの名を持った人々』という意味でした。それを入植者たちが『Nanaimo』と聞き取って町の名としてしまったのです。スナナイモゥの人々は、セイリッシュ海沿岸を季節ごとに移動しながら暮らし、この島では、1月から4月ごろのニシンの産卵期に、漁をしていました。
あら、そちらのご夫婦ははるばる日本から。はぁ、そうですか。実は、この島には日本人の歴史も眠っています…。20世紀の初頭にはニシンの引き網漁をしたり、塩田、林業に従事していた日本人が多くおられたんですよ…。”
それから彼は、こうして口伝で歴史を聞く際に、祖霊に対して畏敬の念を示す言葉を教えてくれ、(大変申し訳ないことに失念してしまいましたが…)それをみんなで呪文のように一度復唱してから、ゆっくりと、海岸沿いを歩いていくのでした。
セイサチュワンは居住が許されておらず、キャンプにも許可が必要で、いわゆる”保護された無人島”です。建物らしい建物は、数えるほどしかないのですが、港のまわりや、その近くのキャンプ場、そして、私たちのような観光客が歩いて回る歴史的な遺構を繋ぐ道は、草の整備が行き届いて、歩きやすくなっていました。
しばらく挨拶を交わし合いながら進んでいくと、海辺の草原で、大きな樫(かし)の樹が、青空に向かって湧き立つ巨大な気球のように、青々とざわめいていました。そこで足を止めると、
”はい、みなさまご覧ください。丸くおぉきく切り出された石ですね。この大きな石の用途はなんでしょう…。はい、そうです。そこの看板に書いてある通りですが、製紙工場で使われた、パルプを作るための石です。
この島では、19世紀後半からこ砂岩事業の採掘が盛んに行われ、こうしたパルプストーンを作る事業も1920年代に興隆しました。”
と、こういった調子で、このガイドの紳士は、少し歩いてはまた足を止め、また歩いては、足を止め、海に向かってせり立った丘の上に立ったり、樹冠が濃密に絡み合うほど生い茂った森の入り口に立ったり、またある時は、パラパラと樹皮がめくれ落ちながら捻じれ立つ、プラタナスの大木の前で立ち止まって、私たちの方に静々と体を向けると、その穏和さによってこそ次々と時代を飛び越えていくかのように、しっとりとした黒い瞳を見開いて、歴史を語って聞かせるのでした。
”かつてカラスが太陽を盗んだ時、実はそれ以前のカラスは白かったのですが、大火傷をして、青みがかった黒色へと焼け焦げてしまいました。それから暗闇の日々が続いたので、人々が熱心に神様へ祈りを捧げますと、使いの鷲(ワシ)が、天からやってきたのです。その胸元に、あの大きな翼の羽根の間に、陽の光を携えて…。”
”西洋人の入植という、二度と閉じることのできない歴史の扉が開いたのは、1850年、酋長ケツァクンが、フォート・ビクトリアで、イギリス人鍛冶師が火に石炭をくべているのを見た時のことでした。ケツァクンが、石炭が豊富にある場所を知っていると告げると、証拠を見せれば1本のラム酒と銃の修理を無料で引き受けてやる、という会話が交わされ、その15か月後、酋長は、一層のカヌーを石炭で満載にして戻ってきたのでした…。”
”この島に、カナカ・ベイと呼ばれている湾があります。カナカとは、ハワイの先住民のカナカ族のことです。ピーター・カクアと呼ばれるカナカ族の男が、冒険を求めてか、出稼ぎのためなのか、理由は定かではありませんが、バンクーバーアイランドまでやって来て、ハドソン湾会社で働いていました。彼は、1868年に、自身の妻と子、そして妻の両親をも殺害し、ナナイモで処刑されました。その遺体はこの島まで運ばれて埋葬されたので、カナカ・ベイと名付けられました。彼は酒に溺れていたとも、よるべのない異郷で離婚を突きつけられて発狂したとも言われています。しかし、真相はわかりません。その埋葬の30年後に、石炭の採掘の過程で、偶然、その棺が掘り起こされてしまったのですが、それがさらに人々の好奇心に火をつけ、幾通りもの幽霊譚が語り散らされ、いまや、この島でキャンプをする人々の語り草となってしまいました…。”
それからも島の植物の薬効に関する伝承や、最近黒いリスがこの島に現れて繁殖していることなどを、立て続けに聞き続け、ようやく私たちは、一軒の休憩小屋に着いたのですが、そこに飾られた一枚の白黒写真に目が留まりました。
”あれ、バンリみたいじゃない?ハンチング帽かぶってさ…”
とユウタが指差す先には、大量のニシンを前にして、肉体労働に励む日本人の姿が映っていたのです。1910年ごろには、この島の北西部に多くの日本人が住み、塩田を営んだり、漁業や林業に従事していたというのです。そして、やがて戦争が始まると、他の地域に暮らしていた日本人とその子孫たちと同様、敵性国民として扱われ、ブリティッシュコロンビア州の内陸部の収容所へと送られていったのでした。あらゆる所有物も、経営していた工場も、みな取り上げられて…。
翌朝、一体全体、何がこの島に”保護”されてるっていうんだろうか、と頭をひねりながら、私はキャンプの中で体を起こし、早朝の朝焼けを、まぶしく浴びる海辺の丸石たちに、静かに耳を傾けながら、じっと考え込むのでした…。