“変な気”
『目上』とされる人間と気を遣いながら喋ることの何が嫌かって『それが笑い話なのかどうか見極めなければならない』ということである。
いつだったか、だいぶ年上のおじ様と食事している時、「若い頃、激辛ラーメンを食べたら耳が聞こえなくなった」と言われ、「本当ですか!またまたー!」と思い切り笑ってしまったのだが、その後「でもすぐに病院に行かなかったから今でも片耳が聴こえにくい。耳は時間が勝負だ。何かあったらすぐに病院に行きなさい」ときたもんだから貼り付けていた笑顔をスッと消したものだ。
あの瞬間を思い出すと今でも嫌〜な汗が出てくる。
そして今、もっと嫌な事がある。
時々、僕が冗談話をしても、年下の子が真面目な面持ちで、あたかも僕がありがた〜い話をしているかのような顔をしている事があるのだ。
「いやいや、これ冗談だから」などと言っても、もうお互いに取り返しのつかない事態となる。
営業職をしていた頃、お客さんの懐に入るのがとても上手い先輩がいた。どんな方とでもまるで友人同士かのように電話していて、楽しそうに仕事をしていた。
一体何が面白くてお客さんとそんなに楽しそうに喋れるのか、“営業”という仕事自体に魅力を感じられなかった僕からすると、先輩のそんな姿はとても羨ましく思えたし、自分にはどんなに努力しても補えないチカラ(だって全く同じ仕事内容なのに、あんなに笑顔になれる瞬間が僕には一切無かったのだから。)だと痛感して、すっかり気圧されてしまった。
とはいえ、結局は人と人。
僕にだってなんでも気軽に話せる友人は(少数だが)いるし、ものすごく年上なのに不思議と通じ合えるように話せる方もいる。バンドメンバーの堀さんは年下らしいのだがずっと敬語で話している(その方が彼と関わり易いのだ)。
以前はなんとなく敬遠してたのだが、最近は同じ世代のミュージシャン達が愛おしく思えてきて、仲良く話せるようになってきた(今更かよ)。
彼らと関わる時、“変な気遣い”はない。「正しい敬語を使わなきゃ!」とか「飲み会での所作を気にしなきゃ」とか。しかし、“変な気遣い”をする場より、もっともっと自然に気を遣っているし、そしてはるかに敬意を持って過ごしている。
とにかく、いわゆる世渡り上手である事の必要性や重要性はこの際置いといて、カタチだけの『目上』とか、『先輩』とかいうものほどタチの悪いものはないのだ。
敬意を持てる相手であれば、年齢、性別問わず、“変な気”も遣わず、自然と豊かな人間関係を築いていけるのかもしれない。