映画「画家ボナール ピエールとマルト」を観たよ。
こんにちは。急に寒いですね。
急な出張で久しぶりに東京まで行ってきました。3月のオクトラオケコン以来かもしれない。
本当に急に決まったこともありホテルが全然とれなくて、歌舞伎町にあるユースホステルに泊まりましたがそれでも1泊8000円超。先日奈良で泊まったホテル(大浴場&朝食付き)が7000円台だったので、東京……もう泊まれねえ……と悲しくなりましたね。某アパでも2万超えだったんだもの……
さてさて先日「画家ボナール ピエールとマルト」という映画を観てきました。たしか去年のうちに、ボナール美術館のツイートで「カンヌ映画祭に出品されます!」みたいな内容が流れてきて「えっボナールの映画!!?」と草を生え散らかして以降、ずっと日本公開を待っておりました。
2018年に国立新美術館で大きな回顧展が開催された際にご覧になった方も多いと思うのですが、個人的にはボナールは学生時代に研究対象とさせてもらっていた画家でして、それなりに思い入れがあるんですね。南仏のル・カネという小さな町にあるボナール美術館にも10年くらい前に行きました。
今回の映画の制作にあたってマルタン・プロヴォ監督は、ボナールの伝記はたくさん読んだうえで映画には自分の創作を加えたと語っています。
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c030289/
ボナールの実際の作品もたくさん使われていたので、いま大体何年頃の話をしているなと理解できたのですが、やはり1893年から1942年までの画家の半生を2時間で収めるとなると、あまり詳しくない方は時系列がわかりにくかったりするんじゃないかな?とか思い、映画の感想というより映画中に出てきた作品をベースに久しぶりにボナールの話でも書きたいな~という感じです。これから映画を観る方の参考になれば。
あ、ろくに資料を見返さずにバーっと書いてるのでファクトチェック怪しいです。ボナールにご興味を持たれた方はぜひ書籍とか探していただきたいですし、日本の美術館にもあちこちで作品が収蔵されているのでぜひ観に行ってみてくださいね~。
ピエールとマルト
映画の起点は1893年、ピエールとマルトの出会いの年です。ピエールはパリの街中でマルトと出会い、彼女は自身の絵画のモデルであり人生の伴侶となっていきます。
ピエールは1867年、パリ近郊のフォントネー・オー・ローズ生まれ。父は陸軍省の役人であり、初期作品にしばしば登場する妹のアンドレはのちに作曲家クロード・テラスと結婚します。ピエールとマルトには実子がいないので、晩年のピエールの世話や没後の作品管理などは甥のシャルル・テラスが尽力したようです。
法律家になるべくパリにやってきますが本人は画家志望で、私立美術学校のアカデミー・ジュリアンに学んだあと国立美術学校であるエコール・デ・ボザールに1889年に入学しています。これらのアカデミーで出会ったポール・セリュジエ、モーリス・ドニ、フェリックス・ヴァロットンらとゴーギャンの絵画理論に影響された象徴主義的グループ「ナビ派」(Les Nabis)を結成。ナビとはヘブライ語で「預言者」を指します。
メンバーの中でも特に日本の浮世絵版画や屏風などに感化されたボナールは、それぞれにニックネームを持っていたグループ内で「Nabis Très Japonard」(とても日本かぶれのナビ)と称されたほどでした。
一方のマルトは1869年、フランス中部のサン=タマン=モントロンに生まれ、1891年にパリに出てきて造花の製造所で働いていたとのこと。ボナールと出会ったとき、彼女は「マルト・ド・メリニー」という偽名を名乗り、ボナールに本名が「マリア・ブールサン」であると明かしたのは正式に結婚した1925年のことだったそうです。個人的には本名を明かすシーンが映画の中で一番好きな場面でした。
映画の中のピエール君はわりと愛と欲望に忠実なわんこ系ぽいところがありましたが、実際はなかなか気難しく皮肉屋な一面もあったそうです。
んで映画ではピエールとマルトはすぐに意気投合して、ナビ派の面々のパトロンでありミューズであったミシア・ナタンソンにマルトがわかりやすく嫉妬したり、ボナールの個展が成功したり、1912年からのふたりの住まいとなるパリ西郊ヴェルノンの家(通称マ・ルーロット)を見つけたり……と話が展開していきます。この辺がかなりダイジェストな感じなのでふたりの出会いからいま何年経ってるの?いま何歳?がちょっと掴みにくかったのですが、1912年時点でボナール45歳、マルト43歳なので、あんなにジャバジャバ川遊びしてて元気やな~……という感想でした。
画家ボナールの評価
ちなみに、ボナールの両親が、彼が画家になることについてどう考えていたかはわかりませんが、法律家になるとパリに出たのに試験にも落ちるし何やってんだってのはあったんじゃないかなと思います。ただボナールはまだ学生だった1890年に「フランス・シャンパーニュ」の広告ポスター案が採用され賞金を得たほか、完成したポスターがパリの街中に貼られて、キャリアのスタートとしては出来すぎなスタートを切っています。
またナタンソン夫妻という理解者もいましたし、1905年(06年だったかも)にはパリのベルネーム=ジュヌ画廊と専属契約を結んでおり、画家としてはかなり安泰になっています。日本でも大正時代にはすでに美術雑誌等でたびたび紹介されており、同時代の一線を走る画家として国外でも広く認知されていました。1912年にパリを離れて田舎へ引っ込むことになっても、ボナールの絵を欲しいという人はたくさんいたわけですね。
マルトの入浴とパステル作品
1904年前後から、ナビ派時代の日本美術から着想を得た平面的、二次元的な画面はなりを潜めて、ボナールは光を描く印象派風の作風へと回帰していきます。ちなみに交流のあったクロード・モネは1940年生まれで、ボナールにとってはひと世代上。
そしてこの頃から晩年まで繰り返し描かれるようになるのが、浴室のマルトです。マルトは神経症の治療のためと潔癖な性格から、一日に何度もお風呂に入っていました。20世紀に入るとフランスでも公衆衛生が改善されて、一般の家庭にも浴槽が設置されるようになったようです。
ボナールが描いたマルト像は、浴室の外から覗き見ているような構図であったり、壁にかかった鏡に映るマルトの切り取られた身体など、どこか対象との心理的な距離を感じさせます。妻が大好きで魅了されているから何度も描いてるんだっていう風にはどうしても思えないんですよね(個人の感想です)。むしろ描けるもんがマルトしかなかったんでねえの感。
構図に関しては、ボナールが自らも撮影を行っていた小型カメラ(写真)であったり、古代ギリシャのトルソ(半身像)などからの影響も指摘できるのですが、まあそういう研究の実践としてマルトっていうモチーフくらいしかなかったんじゃないかな。。もちろん田舎の風景とか飼ってる犬猫とかも描いてるんですが、やはり画家として一番脂の乗っている時期に、パリという芸術のど真ん中から離れて、ある種の隠遁生活みたいになっちゃってたのかなと思います。
パリがキュビスムだーシュルレアリスムだーと盛り上がっていても、ボナールはむしろ時代に逆行するように色彩へと回帰していく。ピカソなんかはボナールのそうした姿勢を批判的に見ていたりしますし、逆にマティスはめちゃくちゃ肯定的です。ボナールとマティスが晩年に交わしていた手紙のやりとりはめちゃくちゃ可愛いのでぜひ読んでほしい(邦訳本出てます)……映画にもマティスのおんじ出てほしかった。。
んで、ボナールは一時ルネ・モンシャティという若い美術学生と浮気していました。このあたりは映画ではけっこう生々しく描かれていて、ボナール夫妻が若干ホラーですらありました。そして映画では、ピエールとルネがローマに不倫旅行中、ひとりヴェルノンに取り残されたマルトがパステルを手に絵を描く……というシーンがあるのですが、マルトも実は1921年から1929年ごろに「マルト・ソランジュ」の筆名で作品を発表しており、1924年にはパリ・ドゥルエ画廊で個展を開催したことも。
ルイーズ・エルヴューという画家に絵を習っていた時期があるそうで、映画のように突然描き始めたわけではなさそうですが、2023年にはボナール美術館で「マルト・ソランジュのパステル画」という企画展も催されています。実物資料が残ってるのがすごいよね~。
ピエールの制作スタイル
ボナールの油彩制作過程でちょっとユニークなのが、キャンバスを木枠に張るのではなく、部屋の壁に押しピンで貼って制作しているところです。映画では1890年代からこういう方法で描いていましたね。実際、これをいつ頃から始めたのか定かでないのですが、写真資料を見る限り1905年頃には始めていたんじゃないかなーと私は考えています。
複数の絵を並行して描き進めていますが、ボナールは自分の絵が展示されている美術館に行き、壁にかかった作品に筆を加えようとして警備員に静止されたというエピソードがあります。彼の中での作品の「完成」ってどこなんだろうな~。
おわりに
書くのに疲れたので作文はこの辺にしときたいのですが、映画はボナールの絵から受ける柔らかくきらきらした印象を持って観始めると結構痛い目を見るんじゃないかな~と思いました。マルトの嫉妬深さとかピエールの無神経さとか、なんだかんだで共依存的な夫婦関係とか、、フランス映画らしい愛憎がもりもりで、なかなか激しくてカロリー高い映画でしたね。癒しがさ……癒しの存在がヴュイヤールくらいしかおらんのよ……
ただやっぱり、それなりに時間をかけて調べた作家の伝記映画だし、観られて良かったな~とは思いました。
ボナールについて研究しているとき、わりと困ったのが、自分の作品や制作、あるいは絵画や美術史に対する私見を、ボナールがあまり語っていないということです。同時代の美術家たちのように自分たちの芸術に対するマニフェストをぶち上げたりはしていない。日記帳に残された断片的な言葉や関係者との手紙のやりとりから、彼が自分がその当時描いていたことや、それこそマルトについてどう考えていたのか、知ろうとしたけどなかなか核心には触れさせてもらえないような、ま~私の手には負えない画家でした。笑
そんなボナールが残した中でとってもすきな言葉があるので、最後に引用して締めたいと思います。いつもどおりダラダラした記事になりましたが、お読みいただきありがとうございました!