デジタル給与支払
銀行口座決済を簡単にするPay by BANKを開発中のBANKEYの阪本です。
前回の記事で予告した通り今回は「PayPay給与受取できるようになるってよ」ということでデジタル給与支払と、同じくらい実はインパクトがあるBANKIT(新生銀行グループ)のことら接続について。
序章:給与明細はマル秘
銀行員時代の話。とあるコンサルティングファームの方(仮にOさんとします)とプロジェクトをご一緒する機会がありました。
プロジェクトの中で給与口座について調査をするタイミングがあり、Oさんがどのように給与を受け取っているかという話題になりました。
阪「やっぱり給与受取口座って指定されたりするんですか?でも社会人経験者がほとんどなんで難しいですよね?」
O「うちは指定があるんですよ。」
阪「なるほどー、でも指定があると、例えば引き落とし対応とかで、一旦入金されたあとの残高の振分けとか面倒ですね。」
O「それが、指定があるくせに給与を2つに分けて振込してくれて2つ目の銀行口座はどこでもOKなんですよ。」
阪「へ?」
O「指定があるのと矛盾してて謎ですよね。まあ強制は出来ないって分かっているのでそこのガス抜きみたいな感じですかね。」
阪「Oさんも分けてるんですか?」
O「もちろん。で、妻には片方の口座しか公開してません。」
阪「へ?」
O「なのでうちは給与明細はマル秘扱いにしています。」
Oさん元気かなぁ。ちなみに前々職の銀行はもちろん給与を分けて振り込むなんてことには対応してくれませんでした。
給与デジタル払い
労働基準法の第24条に賃金通貨払いの原則(要は現金で払いなさい)があります。ただし、ご存知の通り労働者の同意を前提に①銀行口座と②証券総合口座への賃金支払が認められていました(労働基準法施行規則第7条の2)。
が、2020年7月に閣議決定された成長戦略で初めてデジタルマネーによる賃金支払解禁に関する公式な言及があり、2023年4月に改正労働基準法施行規則が施行され、一定の要件を満たす資金移動業者への給与支払が認められることになりました。一定の要件とは以下のようなものになります。
①上限管理措置(100万円を超えない)
②破産時の労働者への保証
③労働者への損失補償の仕組み
④最低10年間の口座残高有効性の担保
⑤法定通貨への兌換(1円単位、毎月1回は手数料なしで)
⑥厚生労働大臣への報告体制
⑦上記のほか、十分な能力と社会的信用がある
そして、今回PayPayが上記の一定の要件を満たしている資金移動業者として国内で初めて厚生労働大臣から指定されることになりました。
PayPayのスキーム
PayPayのプレスリリースや導入企業向け、受取希望者向けの公表資料を無理やり図に整理すると今回のスキームは次のようなものになるようです。
詳細は公表資料を参照頂くとして、本スキームのポイントについて触れたいと思います。
(1)給与支払企業の事務コスト回避
筆者はデジタルマネーによる賃金支払の議論がスタートした2020年当時から、どれだけ利用者が希望したとしても、給与支払企業側の事務手間、事務コストを考えれば従来型の給与振込からのシフトは起こらないという仮説を主張しています。
また、デジタルマネーのメリットとして企業の給与支払における振込手数料の削減(銀行によって異なりますが、オンラインでの給与振込で1件あたり0円から660円の手数料が発生します。)といった点がありますが、実態としては手数料優遇が常態化しており、給与に関しては全銀システムの銀行間手数料も発生しないため、最悪銀行業界が手数料を引き下げることで骨抜きにするだろうと予測していました。
そのような中で、今回のスキームのポイントはPayPay「銀行」を間に入れることで、企業側の従来からの給与支払フローを変えることなく(事務手間、事務コストを増やすことなく)、自動振り分けによってデジタルマネーによる給与支払を「疑似的」に実現したということです。
少し言い方を変えると、本来デジタルマネーで賃金を支払おうと思ったら、企業が一度デジタルマネー(のバリュー)を保有した上で従業員にそれを移転するといったプロセスが必要です。とすると、会計処理どうするのとか、会社としてデジタルマネーをどう管理するのという問題が生じます。
しかし、今回のスキームでは飽くまで企業側は振込で銀行口座に対して支払い、従業員側で受け取った資金をPayPayマネーに換えています。
なので、賃金のデジタル払いとは書いているものの、あくまで「PayPay給与受取」という従業員側の体験が「主」となります。上述の振込手数料削減等の企業側メリットも今のところはなし。
(2)バーチャル口座の活用
利用者がPayPayでの給与受取を申込すると、PayPay銀行の入金用口座の口座番号が発行されます。おそらく下図のような流れになっていると想像します(左下の給与振込からスタート)
PayPay銀行の入金用口座の口座番号(従業員の方が企業に新しい給与受取口座として申請する口座番号)は恐らくPayPay銀行が提供するバーチャル口座の口座番号で実際の口座ではありません。
このバーチャル口座に入金された資金は一箇所(仮に自動振り分け用の別口とします)にまとめられ、別途利用者別に定められたルールに基づいてPayPay社の預かり口への振替と指定された銀行口座への振込処理に分けられます。
そして同時にPayPay側のシステムではPayPay社の預かり口への振替額と同額をアカウント上のPayPayマネー(給与)に反映(チャージ)させます。
この自動振り分けの処理部分でPayPayアカウント側の残高を参照したり(最大上限20万円や利用者別の受取希望額等を反映)、他行への振込処理を即時処理したりと構築の苦労があったのではないかと推察します。
企画の人が考えそうなこと
今回のスキームはデジタルマネーによる賃金支払ではなく飽くまでデジタル給与受取という従業員側に訴求したものになっています(イメージしずらい場合には、PayPayをUSDと置き換えてみるのも手かもしれません。従業員がUSDでの給与受取を希望した場合に、企業が指定された円口座に給与振込したら間に入っている銀行が自動で一部をUSDに両替して入金します。従業員はUSDを使って決済しますが、企業側の支払は飽くまで円の振込で変わりません)。
(1)企業の今後
現状のスキームでは企業の活動において大きな変化は想定されません。粛々と従業員からの給与受取口座の変更手続きに対応します。
振込手数料削減等のメリットもなく、PayPay払いに対応しているといったアピールにどのような効果があるかは未知数です(PayPay払いに対応する会社が労働者から選ばれるといった世界線は少し想像し難い)。
PayPay側としてはやはりデジタルマネーによる賃金支払の企業側メリットを見出すことができなかったため、メリットではなく「手間がない」ことを訴求ポイントにしているのだと想像されます。
(2)従業員の今後
PayPayのポイント還元や加盟店のカバー率の高さなどからコード決済におけるPayPayのシェアは当面崩れることはなく、PayPayを決済手段として利用する個人は一定規模存在します。また、「チャージ」が面倒!という声は多く、
企業側が労使協定等の事前準備を完了させ、PayPayでの受取が可能であることをアナウンスすれば一定の割合で「簡単なチャージ方法」として利用するユーザーは現れると思われます。一方で、行動に大きな変化が生じるかというと多少チャージ額は増えるかもしれませんが、現状のスキームの範囲では劇的な変化は起こりずらいかな。
(3)PayPayの今後
企業側も従業員側も劇的な変化は起こらない(と少なくとも想像される)中で、そもそも何でPayPayはデジタル給与受取に参入したのでしょうか?
[仮説1]PayPayチャージ手数料の削減
PayPayのビジネスモデルは、PayPayで決済すると加盟店から決済金額の1.9-2.8%の決済手数料を受け取り、これが売上になります。
一方でコストはシステムや営業の固定費の他、ポイント還元を含めた広告宣伝費に加えて、PayPay残高のチャージ手数料があります。
その昔、某ソ◯トバ◯クのS氏がメガバンクに対してチャージ手数料をゼロないしはゼロ近傍まで優遇して欲しいと交渉するなどここの手数料は結構クリティカル(尚、例えば中国ではアリペイやWCPが銀行に支払う手数料はゼロ)。クレジットカードもPayPayカードに限定したり、銀行口座からのチャージもデフォルトが10,000円〜になっているのはチャージのためにリアルタイム口座振替という手数料が安くない決済の仕組みを導入しているからだったりします。
今回のデジタル給与受取ではPayPay銀行が間に入ることでチャージ手数料を相対的に引き下げることが出来ます。
PayPayとしては利益率が改善するわけで、削減できたコストを利用促進のための広告宣伝費に充当し、更なる給与受取のプロモーションを進めることができます。
[仮説2]運用、貸出への波及
金融サービスにおいて決済関連手数料は中長期的にはゼロに近づいていきます(インフラ維持コストがあるのでゼロにはならないが、決済行為そのものの「手数」はなくなっているので当然の帰結)。結局金融ビジネスを行うには運用か貸出を行うしかないのです。
今回のデジタル給与受取では一度PayPayマネー(給与)にチャージしても月に1回は手数料無料で銀行に送金できてしまう仕組みです。PayPay側からすると送金なんてされたら何も嬉しくないので、できるだけ多くの金額をPayPayで受け取ってもらった上で、毎月使い切って欲しいわけであります。となると、購買時の決済だけでなくPayPayマネーからの運用商品購入やローン返済といった自社プラットフォーム上で展開している金融商品を銀行口座からの資金移動ではなく自社プラットフォーム上での振替で取り扱えるようにしていくというのは自然な流れになるのではないかと(借入はPayPayマネーに入金、返済はPayPayマネー(給与)からみたいな流れ)。
更に筆者がPayPay銀行の企画にいたら、PayPay銀行から給与受取口座への振込という新たなタッチポイントも生まれることから、今度は銀行として振込のタイミングで一部を運用しませんか?といった動線は絶対に組み込みます(給与100に対して20はPayPay、10を運用にまわして、70を給与口座(他行)にみたいなイメージ)。
ほとんどの銀行がアプリの利用者体験を惜しい(ダメとは言っていない、最低ではないが最高はない)まま放置して、利用者のアプリの利用意向を削ぐことで、一度入金した資金については、できるだけ触られることなく滞留されるように目指しています(違)
言い方を変えると口座に入金したら最後、そこからのコミュニケーションの難易度は跳ね上がります。給与という入金する瞬間で利用者とコミュニケーションして入金する前にお金を動かすという新たなタッチポイントが創出されるのです。
業界へのインパクト
今回のスキームでは飽くまでデジタルマネーによる賃金支払ではなくデジタル給与受取なので、マスリテール領域におけるPayPay対●●への影響が想定されます。
(1)対決済事業者
コード決済シェア1位のPayPayの事業コストが低下するため、利用者還元や加盟店手数料引き下げといった形で決済領域でのシェア固めが進みます。引き続き決済手段が乱立する日本ですが、そろそろまた淘汰される事業者が出てくる可能性があります。
(2)対銀行
従来の給与入金されてからリアルタイム口座振替でPayPayにチャージするというフローの一部が消失(リアルタイム口座振替の取引件数減少=手数料収入減少)。
給与振込に関連するデータポイントも失うことに(給与の総額は不明に、入金元も不明となり、転職等のライフイベントのトレース=顧客管理、マーケーティングデータはPayPayとPayPay銀行へ)
口座に入金された資金を元にビジネスを行うという従来の銀行ビジネスに対して入金直前のプロセスにPayPay、PayPay銀行が参入することでビジネス前提が転換する。
今後の展望
同様に資金移動業者が厚生労働大臣の指定を受けるべく準備を進めているとも仄聞しており、今後の展望についての妄想です。
(1)デジタル給与受取
PayPayのように従業員を主語にして考えると結局のところ、資金移動業者としての資金管理銀行と従業員本人の給与受取口座とのやりとりのコストをどう抑制するかという議論に帰結しそうです。PayPayの場合にはグループに銀行がありましたが、そうでない資金移動業者の場合にはコスト増は免れません。
ただし、結局のところ銀行間の資金移動のコストが下がれば出来ることはありそうというところで、冒頭に少し触れたBANKIT(新生銀行グループ)のことら接続には注目しています。
BANKITはSBI新生銀行グループの資金移動業者です。またことらは個人間の10万円以下の送金について手数料無料(実際には参加金融機関が数円レベルの手数料を負担)で実行できるという枠組みです。
BANKITで受け取って、ことらで本人名義の口座に利用者本人が資金移動するといった使い方、使われ方はあるのかもしれません(BANKITで支払いたいという利用者モチベーションの設計は必要)。
ただ、このデジタル給与とことらの組み合わせが本領を発揮するのは次のパターンになると思います。
(2)デジタルマネーによる賃金支払
PayPayのスキームとは異なり企業から支払う段階でデジタルマネーにしてしまうことで、企業が負担する振込手数料を抜本的に削減します。
手数料の設計次第ですが、例えば日払い給与への対応(毎日が給料日)や、オンデマンド支払(原則1ヶ月に1回だが、好きなタイミングで好きな金額を受け取れる)といった給与の支払(受取)のタイミングのフレキシビリティが変わります。従業員が受け取った資金は「ことら」で普段使いの口座に移動することで銀行預金化することも可能です。
企業側は従来の銀行口座振込とは異なるフローを構築する必要があるため導入のハードルは上がりますが、タイミーなどのスポットアルバイトを前提とした業態や建設現場など日払いが多い業界などではニーズがあるかもしれません。
終わりに
今回のPayPayのデジタル給与受取は事前に想像していたような劇的な変化はすぐには起こらないかもしれません(業界へのインパクト、影響も当面は軽微だと思われる)。一方でPayPay陣営の次の一手次第では銀行のマスリテールビジネスは前提条件が大きく変わる可能性もあります。
ただし、もう少し引いて見ると、結局のところ銀行口座からのお金の出し入れの話であって、極論ですがOpen Bankingが日本でもきちんと実行・実装されていればPayPayも無理やりこのようなスキームを構築することも無かったのだと思います(欧米や中国でもデジタル給与受取は労働者の意向や事情に対応する形で存在していますが、受取の大部分は銀行口座です)。
労働者、利用者にとって選択肢が増えること自体は良いことだと思いますが、ビジネスの前提が変わってしまうかもしれない銀行業界は一度参照系を軸に構築してしまったAPI戦略(システム、手数料体系等)を虚心坦懐に更新系を含めて見直す時期に来ているのかもしれません(最後はポジショントーク)。では、また。
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