映画「オッペンハイマー」登場人物関連まとめ
1896年
ウェストバージニア州チャールストンでストラウス(ルイス・シュトラウス)生まれる。
両親はユダヤ人移民
後にバージニア州リッチモンドに移住
ストラウスは物理学を目指し高校卒業総代・バージニア大学入学の資格があったとされるが、病気で高校の卒業も叶わず。父親の会社で旅行靴のセールスマンとして働く。
1904年
ユダヤ人移民の子としてニューヨークでロバート・オッペンハイマーが生まれる。
1917年
ストラウス(21歳)はフーヴァー(1929-1933年大統領)の無給アシスタント〜私設秘書・腹心になる。
1918年
第一次世界大戦 終戦
ストラウス(22歳)はパリでアメリカ救済局長となったフーヴァー(44歳)の私設秘書となる。
→フィンランド外交代表の代理としてロシアからの独立をフーヴァーに進言。
1919年
ストラウス(23歳)はアメリカユダヤ人共同分配委員会(JDC)と協力。
ピンスク虐殺
(ロシア・ポーランド戦争下にてアメリカからの救援物資の分配について会合していたユダヤ人35人をポーランド軍が逮捕、処刑した事件)
→ストラウスはフーヴァーに対してポーランド政府に対して強力な対応を依頼。
その後ストラウスは、アメリカに戻りグローバル金融財閥であるクーン・ローブに属し、鉄道・鉄鋼関連の事業における資金調達や融資に携わる。また、コダック社のコダクロームフィルムやエドウィン・H・ランド社のポラロイドカメラの市場投入にも貢献する。
→お金持ちになる。
1920年
〜1928年
ストラウス(24歳)、フーヴァーの大統領選挙に関わる。フーヴァーの大統領期間(1928-1933)は陣営に参加。
1923年
オッペンハイマー(19歳)はハーバード大学を3年で首席卒業、ヨーロッパへ留学する。
(ケンブリッジ大学、ゲッティンゲン大学、ライデン大学)
この期間にオッペンハイマーはイジドール・ラービと出会う。
1926年
ストラウス(33歳)、海軍(予備役)となる。
1929年
ストラウス(30歳)、クーン・ローブ正式パートナーになる。
オッペンハイマー(25歳)、カリフォルニア大学バークレー校・カリフォルニア工科大学の助教授となる。
→アーネスト・ローレンス(28歳)と知り合う。
1936年
オッペンハイマー(33歳)、共産党員のジーン・タトロック(22歳)と出会う。(以降、ジーンによりオッペンハイマーは共産党や関連団体に関係する人、またはそれに同情的な人々を紹介される。)
1937年
ストラウス(41歳)の父母の死(癌)により放射線治療の可能性に賭け、ルイス・アンド・ローザ・ストラウス記念基金を設立。これを機にシラード(39歳)、アーネスト・ローレンス(36歳)らと知り合う。
オッペンハイマー(34歳)、ラテン語准教授であったホーコン・シュバリエ(36歳)と出会う。
1939年
ドイツのポーランド侵攻
(第二次世界大戦 開戦)
ナチス・ドイツの核兵器保有に恐れ、シラード(41歳)らがアインシュタイン(62歳)の署名を借りてルーズベルト大統領に進言。
ストラウス(43歳)、海軍諜報部隊の現役に希望するも、認められず。(当時の海軍情報長官とFBI長官のユダヤ人擁護に対する懸念が原因とされる。)
オッペンハイマー(35歳)、カリフォルニア大学バークレー校の教授となり、物理学者のチャールズ・ローリツェンの開いたパーティで後の妻で1929年から1933年まで共産党員であった植物学者キティ(キャサリン・ヴィセリング・プニング:29歳)と知り合う。
1940年
オッペンハイマー(36歳)、妊娠したことで前夫と離婚したキティ(30歳)と結婚。
1941年
ストラウス(45歳)、ルーズベルト大統領の政策に反発しクーン・ローブでの活動を辞める。
兵器局長官補佐官として配属され、海軍軍需品の作業の組織化と管理するためにワシントンDCに移る。
12月
真珠湾攻撃
1942年
ルーズベルト大統領により核兵器開発プロジェクトが承認→「マンハッタン計画」
責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将(46歳)。グローブスはオッペンハイマー(38歳)と会い、爆弾を設計・実験できる実験室の創設について話し合い、オッペンハイマーの計画に対する問題点の把握とその圧倒的な野心の元の推進力を、研究に最適であると判断。
陸軍長官特別補佐官で、「マンハッタン計画」の管理を行っていた「科学研究開発局」と陸軍のつなぎ役あったハーベイ・ホリスター・バンディによりストラウス(46歳)は「マンハッタン計画」には関与せず。
1943年
1月
ソ連総領事館の三等書記官ピョートル・イワノフからソ連社会主義信奉者であったシェル開発会社のイギリス人研究員エルテントン(37歳)、エルテントンからシュパリエ(41歳)経由でオッペンハイマーに対し、「マンハッタン計画」へのソ連の介入の可能性についての打診。オッペンハイマーはこれを拒否した上でロスアラモス国立研究所の所長となる。
7月
グローヴスは、オッペンハイマーの共産主義的な知り合いがいることは承知しており、機密保持許可を与えるよう命令。
8月
オッペンハイマーがその"友人"を経由してソ連からの接触があったことをグローヴスに伝える。
12月
グローヴスに対して、エルテントン、シュパリエ、そしてオッペンハイマーの弟であるフランクへの接触であると明言。
▼ 他 研究員
ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラム、リチャード・ファインマン、ハーバード大学やカルフォルニア大学など名門校の学生など
▼ 協力者
アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなど
▼ コンサルタント
イジドール・ラビ
ソ連が原子爆弾の実現可能性に関するイギリスの極秘文書を入手し、スターリンによる開発承認
後に参加したドイツ人→イギリス国籍取得者でありつつ共産主義からソ連のスパイとなっていた理論物理学者クラウス・フックス(32歳)により「マンハッタン計画」の情報はソ連に流される。
6月
オッペンハイマーはジーン(29歳)とバークレーで会い、一夜を過ごす。(FBIに監視されていた。)
1944年
1月
ジーンの自殺
(暗殺されたという説もあり…)
海軍長官特別補佐にストラウス(48歳)が雇用され、海軍研究局を設立。少将への昇進提案はルーズベルト大統領の不賛成により実現せず。
1945年
2月
ヤルタ会談
4月
ルーズベルト大統領死去(63歳)
ハリー・S・トルーマン大統領(61歳)就任
7月
ストラウス(49歳)、准将に昇進
原爆完成(トリニティ実験)
ポツダム会議
8月
原爆投下〜終戦
10月
オッペンハイマー(41歳)、トルーマン大統領と面会
11月
ストラウス、少尉に昇進
ワシントンとウォール街の両方とのつながりを利用しアメリカの戦後体制に参入。
メイ・ジョンソン法案が提出される。
強力な管理者と副管理者を生み出し、それは軍隊の一員である可能性があるとしてシラードら科学者が猛反対する。
12月
1946年原子力法(マクマホン法案)が提出される。
原子力の研究開発が原子力委員会の監督の下で行われなければならず、核兵器の設計、開発、製造に関するすべての情報は「制限付きデータ」であり、その情報がどのように導き出されたか、入手されたかに関係なく、特に機密解除されない限り機密扱いと見なされた。
1946年
ストラウス(50歳)は原子力に関する省間委員会の海軍代表となる。
7月〜
クロスロード作戦
(ビキニ環礁で行われた2度の核実験)
→実行は「マンハッタン計画」ではなく第二次世界大戦中のアメリカ海軍の提督ウィリアム・HP・ブランディ率いる「陸海軍統合タスクフォース1」によるもの。
9月
オッペンハイマー(42歳)はFBIから事情聴取を受けるが、シュヴァリエ(45歳)を庇う。
1947年
ブリストン高等研究所の所長をオッペンハイマー(43歳)に打診〜就任
※ストラウス自身も候補だったけど所属研究者からの希望はオッペンハイマーが1位だった。
オッペンハイマーは核軍縮を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動。水爆またはそれ以上の威力を持つ兵器開発反対の立場を取り、「ロスアラモス国立研究所」で共に「マンハッタン計画」参加をしたテラー(39歳)らと対立する。
オッペンハイマー、リヒトマイヤー記念賞受賞
1949年
8月
ソ連、プルトニウム爆弾の実験に成功
(RDS-1)
アメリカの予想より早かったソ連の原爆完成に対して数ヶ月に渡る協議、ストラウス(53歳)は原爆より威力の強い水素爆弾の開発を行うべきと進言。
(1947年から続いていた)医療目的での放射性同位元素の輸出が米国の安全保障に対するリスクであるかどうかをめぐっての論争で、ストラウスはオッペンハイマー(45歳)に屈辱的にやり込められる。
1950年
1月
トルーマン大統領により水素爆弾開発承認
3月
フックス(39歳)がスパイ容疑で告発され、懲役14年の刑を受ける。
6月
ストラウス(54歳)はロックフェラーの財務顧問となる。継続して米国議会原子力エネルギー合同委員会とも顧問契約。
テラー(42歳)らにより水爆研究開始
1952年
イギリスの原爆実験成功
アメリカによる水爆実験(アイビー作戦)
1953年
アイゼンハウアー(63歳)が大統領となる。
ソ連による水爆実験(?)
アイゼンハウアー大統領によりストラウス(57歳)は原子力顧問・原子力委員会委員長に任命
マッカーシズム(赤狩り)の台頭
共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除の動き
1954年
3月
ビキニ水爆実験(キャッスルブラボー実験)
予測を超える爆発と、住民&通りかかった第五福竜丸乗組員の放射線汚染で国際問題化
7月
オッペンハイマーの公聴会
(オッペンハイマー事件)
→オッペンハイマー(50歳)がスパイの嫌疑を受けて、国家機密に関与する資格を奪われ公職から追放された事件。
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12月
マッカーシーにより「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として、オッペンハイマーは事実上の不信任を受ける。
1957年
スプートニク危機
ソ連の人工衛星開発成功によるミサイル計画の成功
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大統領科学諮問委員会を創設によりストラウス(61歳)は大統領と科学者の間のコントロール力を失い発言力低下
1958年
ストラウス(62歳)、原子力委員会委員長を退任
(打診されるも断る)
首席補佐官・国務長官の打診も辞退
商務長官に任命・就任するも、上院による猛反対を受ける
→「委員会をごまかそうとする厚かましい試み」で告発される
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ストラウスは、水爆開発における自分の役割を誇張し、トルーマンに水爆を支持するよう説得したことをほのめかす
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トルーマン(78歳)激怒
上院側に否定表明
→上院、マスコミにばらす
→ストラウスはトルーマンとコンタクト取ろうとするも拒否される
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「マンハッタン計画」には関わらず、原爆使用前に日本に警告するよう求めるシラードの嘆願書に署名した、アメリカ科学者連盟の元会長である物理学者デビッド・L・ヒル(39歳)の発言(この国の科学者のほとんどはストラウス氏が政府から完全に排除されることを望んでいる)
1959年
上院によるストラウスの商務長官の任命否決
→ジョン・F・ケネディ(42歳)とリンドン・B・ジョンソン(51歳)も反対票を投じた。
フックス(48歳)釈放、東ドイツへ
(後に中国の技術者へ核技術を教えたとされる)
1960年
オッペンハイマー(56歳)来日
1961年
ジョン・F・ケネディ大統領就任(44歳)
1963年
オッペンハイマー(59歳)、「エンリコ・フェルミ賞」受賞
ケネディ大統領(46歳)、暗殺
ジョンソン大統領就任(55歳)
1965年
オッペンハイマー(61歳)、死去
1974年
ストラウス(78歳の少し前)、死去