8月6日は原爆の日です。
横浜に来て10回目の8月6日を迎えます。
広島から離れると、8月6日は全くの日常です。
ただ、私にとっては忘れてはいけない日、 伝えていかなければならない日です。
8月6日原爆の日です。
1945年8月6日、父はクラスメイトのほとんどを原爆で亡くしました。
学校から作業に出ていた場所で亡くなったのです。
その日病気で学校を休んでいた父にとって、 8月6日は友人たちの命日です。
父は毎年8月6日の式典には参加せず、原爆ドーム近くのクラスメートの亡くなった場所、 知り合いの亡くなった場所に出かけていました。
これは、その父から聞いた話です。
8月6日父は昭和町にある自宅の2階で寝ていて生き埋めになりましたが助かり、 一緒に自宅にいて階段の掃除をしていたすぐ上の姉と2人で逃げたそうです。
姉は無傷でしたが、地上になんとか出た父は頭にガラスの破片や釘が刺さり血だらけになっていました。
救護所に向かおうとしましたが、周りの人に比べ自分の怪我の軽さに恥ずかしくなり、自分で頭の釘を抜きガラスの破片もできるだけのぞいて、姉と二人で逃げたそうです。
何度も聞いた父の8月6日の話はここまででしたが、 大人になって一緒に逃げた伯母(父の姉)に聞いた話はこの続きでした。 子ども2人で逃げる道は危険ばかり、渡るしかない高い鉄橋を目の前に伯母は足がすくんで動けなかったそうです。
父にとっては鉄橋のことなど全く記憶に残っていなかったようですが、父がいなければ生きていなかったと、伯母は涙を流して語ってくれたのです。
母に聞いた話によると父は私が生まれてからも生き埋めになった時の夢を見てはうなされていたそうです。 そして父は11年前に亡くなりましたが、亡くなる間際まで、頭に埋まった多くのガラスの破片に悩まされていました。 取る事もできず、時折出てくるガラスの破片、 ひどい頭痛だったようです。 そして、死ぬ間際まで私や妹、子どもの身体に原爆の影響が出ているのではないかとずっと怯えていたのです。原爆について思い出したくないという気持ちもありながら、 それでも父の世代の人達は「原爆はダメだ!戦争はダメだ!」ということを一生懸命伝え続けてきたのだと思います。 ずっと父の話を聞いてきた私自身はその思いを伝えるくらいは・・と思って毎年この記事を書いてきましたが、横浜に来てからは8月6日について自分が思い出すだけではだめだと感じ始めています。
もっと、伝えなければいけない。 みんなが、「原爆はダメだ!戦争はダメだ!」と思わなければいけない。 この記事を読んでくださった方、 どうか、隣にいる方に伝えてください。 シェアしてくださると嬉しいです。
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