熊肉一斤 家庭学校 その3 の3
1925年(大正14)2月6日の大町桂月の日記に「◎北海道品川義介 熊肉一斤」と記されています。 〜「家庭学校 その3 の2」で熊肉まで届きませんでした。〜
大町桂月日記
1921年(大正10)8月-9月
桂月は1921年(大正10)7月10日に東京雑司ヶ谷の自宅から北海道を目指して出発しました。11日に函館に到着し北上、8月21日からは大雪山連峰を探訪し25日に松山温泉(天人峡温泉)に下山しました。26日から旭川に滞在し、29日から網走に9月1日まで滞在しました。この間、網走監獄を訪問し監獄敷地の三眺山からの眺望も記録しました。
9月2日 徒歩移動 常呂イワケシュ山(イワケシ山)登山 常呂宿泊
3日 徒歩移動 濤沸(佐呂間)から下湧別(湧別地区) 下湧別宿泊
「花豆や三里四方に家二軒」
4日 下湧別から列車で上相ノ内へ 上相ノ内宿泊
「上湧別で品川氏行違ちがう」の記述あり
「社名淵駅長」「下生田原駅長」品川氏電話の記述あり
5日 上相ノ内から社名淵駅 家庭学校訪問 温根湯温泉宿泊
6日 野付牛(北見)宿泊
「あな尊平和の山にわき出てゝ
人の命をすくふ眞清水」
7-8日 網走宿泊
8月30日の日記に初めて「社名淵・家庭学校農場・留岡幸助・東京巣鴨家庭学校」の記述が見られます。9月4日に予てからの知人である家庭学校職員品川義介氏と上湧別で偶然顔を合わせ、社名淵(開盛)駅長や下生田原(安国)駅長を通しての家庭学校訪問に関してのやりとりがあったとわかります。その結果として翌5日の突然の家庭学校訪問につながります。
大町桂月家庭学校訪問日の日記
九月五日 晴、
保衛(林保衛) 留邊蘂マデ 社名淵驛 三島義介(我羊) 留岡幸助 家庭學校農場 道より五町入る じゅかあん 惠の谷 命の泉 望の岡 クローバー オランダレンゲ カシワ 白楊 禮拜堂 林間教會堂 牛舎、馬、ぶた、樂山庵ぼくちくのぎし、紅葉庵 秋田女史-富豪の女 同志社大學女子部 獨想庵豫定地 兩方に清水 掬泉寮 品川氏と生徒少年 石上館 青年 掬泉館の博物館 石蔟 石斧 土器 しゃくし 石剱、石臼、
品川氏 鈴木氏 驛に送る
七百五十町三百町ひらく
平和の山1 五日山2 綠山3 三山九谷 留岡氏もと空知集治監の教戒師、
ひるのごちそう
圓なる平和の山にわき出でゝ
惠の谷をしらす眞清水 あなたにと、
遠輕まで送り來りて別る 夜に入る 三ヶ月 留邊蘂に下り溫思子溫泉 溫思湯
一別回顧四十年 何圖北地再逢綠
且悲且喜酒杯裡 上話人多在九泉
似林大兄、
何須長廣舌 天地自開才
流出滿身汗 孰知大道來
社名淵作
朽木たく子供四五人百合の花
蝦夷菊や谷の清水のちょろちょろと
禮拜の堂にとゝかぬ夏木立
とり立ての野菜の味や樹下の庵
半分ははげても青し平和山
師の家と宿舎の間花壇哉
牛眠り豚くひ馬なく夏木立
日記にみる 家庭学校での桂月の歌
あな尊・・・
5日日記に記した短歌を6日に改作し決定稿としました。この歌は家庭学校命の泉の傍に石碑に刻まれて建っています。
一別回顧四十年・・・
「40年前に別れた後をあれこれ思い出します。どうしたわけか北の地で巡り合う縁がありました。酒を酌み交わしながら喜んだり悲しんだりしました。亡くなってしまった友人の話が多くなってしまいました。」というような意味なのでしょうか。
5日の日記に記した漢詩を6日に改作し決定稿としました。古くからの友人、上相ノ内在住の「林 保衛」との再会に際して詩です。
保衛は桂月と同じ高知県土佐出身で屯田兵として上相ノ内(現北見市相内)に入植しました。日露戦争に従軍後、野付牛村会議員その後、相ノ内村長、野付牛魚菜市場取締役を務めるなど、この地方の名士の一人として活躍しました。
何須長廣舌・・・
「なぜわざわざ口数多くしゃべりつづけるのだろう。世の中を自ら切り拓くには、体全体から汗を流すことで、人として行うべき正しい道義を知ることになる。」というような意味なのでしょうか。
朽木たく・・・
朽木 : 枯れ木
たく : 燃やす
蝦夷菊や・・・
蝦夷菊は白や赤、青、紫など色とりどりの中国原産のキク科の園芸植物です。江戸時代から改良が進み、北海道など寒い地方でよく育ちます。
禮拜の・・・
今、家庭学校礼拝堂の周りは巨木が茂っていますが、桂月が訪れた1921年(大正10)には、樹高が届いていなかったのでしょう。
とり立ての・・・
樹下庵は、家庭学校の寮の一つです。
半分は・・・
今、平和山は一面の森となっていますが、桂月が訪れた1921年(大正10)には、植林がされず草地の多い山でした。
師の家と・・・
師は品川義介、宿舎は掬泉寮でしょうか。
牛眠り・・・
日記にみる品川義介
1921年(大正10)
9月4日 「上湧別で品川氏行違ちがう」
「社名淵駅長 品川氏電話」
「下生田原駅長 品川氏電話」
9月5日 「品川氏と生徒少年」
「品川氏 鈴木氏 驛に送る」
9月21日 「品川義介スミ 留岡幸助スミ」
12月19日 「品川義介」50人程の氏名の中にある。年賀状送付者名かと思われる
1923年(大正12)
年賀状送付名簿(150通)に「品川義介」の名あり
1925年(大正14)
2月6日 「◎北海道品川義介 熊肉一斤」とあります。
この日は他にも
「久保田朝興 "のり"のかんづめ」
「松次郎氏より 山どり雄一羽、雌二羽」が届いています。
滞在中の十和田市蔦温泉で受け取ったと思われます。
6月10日 桂月十和田市蔦温泉で永眠(56歳)
熊肉
桂月の日記に「熊肉」とあるのは、3回です。
1921年(大正10)9月29日 弟子屈
・弟子屈は、北海道東部地域にあり屈斜路湖、摩周湖のある町
1923年(大正12)12月31日 蔦温泉
・まみ : タヌキまたはニホンアナグマのこと。イノシシなど他の動物を指すこともある
・穴熊 : ニホンアナグマ
1925年(大正14)2月6日 蔦温泉
・1斤およそ600g
1925年(大正14)3月15日 「人道」
3月の家庭学校機関誌「人道」に熊肉を品川義介氏等が食べたことが記されているので、この時に用意された肉が桂月に届けられたと考えられます。
・居常味食 : 常に味わい食べる
・我羊先生 : 我羊は品川義介の号
・丈 : 年長者に対する敬称
ここに書かれていることから、それほど美味しいとも思えなかった熊肉を話の種として桂月に贈ったのではないかと考えられます。
writer Hiraide Hisashi
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