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熊肉一斤 家庭学校 その3 の2
1925年(大正14)2月6日の大町桂月の日記には「◎北海道品川義介 熊肉一斤」と記されています。熊肉が600g届いたということが記されているのです。
品川義介
白雲荘
品川義介(1889-1982)は山口県出身の社会教育家・文筆家です。1914年(大正3)に開校した初期の北海道家庭学校に勤務し(1916-1925)、掬泉寮の寮長を務めました。その後、札幌琴似の「白雲荘」で救護事業・社会教育活動を行いました。
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サナブチ平野の春を竢ちて
留岡幸助が編集発刊していた「人道」に品川義介の文が最初に掲載されるのは、義介が家庭学校への勤務2年目、1918年(大7)2月号です。
開校4年目の家庭学校の様子が垣間見えます。
サナブチ平野の春を竢ちて 家庭學校農場ニテ 品川義介
◇粛啓「僕學三十年猛氣廿一回」野生も漸く小塚原頭の松蔭先生と同年輩と相成申候。只年のみ。慚愧に不堪候されど散る花を追う事勿れ、出づる月を待つべしとやら、前にあるものを望む事のみ記憶致居候。恰も好し、春光漸くサナブチの天地を襲はんとす。いでや馬を陣頭に進め候はん。野生も惠の谷に來りて茲に二星霜、目下吾等夫妻にて十二三歳より廿歳前後の少青年十五名程御世話致居候。北海道稍寒し、話をすれば毎朝鼻毛が凍る、夜衣に氷柱がさがる。バケツに手がひつつき、急にひつぱれば皮が剝げる。油が凍て時計がとまる。されど掬泉寮諸生皆勇健、愉快此事に候。烈寒二十度の佛暁床を蹴り踊躍一番、脚下の泉に飛び込み致候。
◇生命の泉は北見第一の靈泉也。暑涸れず、冬凍らず。清冽愛すべく、眞に其名に負かす候。嘗て駄句あり、湧別村、惠の谷、掬泉寮を織りこんで、
「湧き出つる|生命《・》の泉掬みとりて來る人々に惠み別(分)たん」農場は三能主義を採り、能く喰ひ、能く寢、能く働き致候。大童小兒皆よく食ふ。一日一人平均七合五勺、一升飯を平ぐる者三割、先生も其株主なりと歌ひ致候。毎朝六時(内地の五時半)起床、水浴、掃除、輪讀会を濟まし午前中は冬期學校に通ひ、午後は伐木運搬除雪薪割等の勤勞に従事仕候。一千餘町の農場には有り餘る程の仕事あり 感謝に不堪候。吹雪中の活動は悽愴の極み、痛快の至り。都人には見せ度き程に候、日曜學校禮拝金曜日祈禱は本校と一般に候。諸君の情性日に好良、一同喜び居候。驚くべき大自然の感化に御座候。農場も創業茲に四年、漸く目鼻の付きたる次第に御座候。事務所、一日庵、掬泉《きくせん》寮、樹下庵、水車山麓庵の外、本年融雪を待ちて、新し禮拜堂、石上館、樂山寮、澱粉製造所等竣工の運びに候。
◇秀麗なる平和山山麓に望の岡の高臺あり。教育地五十町歩の中心點に候。前三百間道路の両側に二大門柱あり銘に曰く「東西南北四本の桂虚空を家と棲みなして心にかゝる造作もなし」望の岡六万坪、静寂綠深き處に林間禮拜所あり。古大木丸切りの教壇自然木荒削のベンチ數三十、優に五百人坐するに足る。毎夏九月此處にて、小作人作物品評會、子供大會を開催仕候、惠の谷の風光明媚、四時眺め盡きず候。乗るに馬、行くに橇、撃つに鳥、逐に獸、釣るに魚、諸君皆喜ぶ。洵に偶然に非ずと存じ候、されど一千餘町の山林を開拓して、新農村の建設、百五十名の青少年を収容して心靈的開發に志す。思へば前途洋々、力足らさるを恨むのみ「壁一重千島エトロフカムサツカ」遠くオホーツク海を隔てゝ、露領カムサツカを睨み、鍬を握りて立てる天下無告の少年の爲めに、御熱禱奉願候。擱筆に當り、本校の發展と、同情者諸賢の清福奉祈候。草々謹言
・粛啓 : 手紙の初めに書く、あいさつ語。つつしんで申し上げますの意。
・吉田松蔭(1830-1859) は小塚原回向院に埋葬され、その後世田谷若林に改葬され、現在の松陰神社となった。
・慚愧 : 自分の行為を反省して恥じること
・不堪 : 技芸が未熟なこと。その道の心得のないこと。 ふとどきであること。
・候はん : 昔の手紙文の言葉で「ございましょう/…いたしましょう」の意。
・星霜 : 苦労を重ねて経た年月
・雄健 : 力強く、すこやかなこと。また、そのさま。
・佛暁 : 明け方、あかつき。
・清冽 : 水などが清らかに澄んで冷たいこと。また、そのさま。
・七合五勺 : 1合はおよそ150g、1勺はおよそ15gなので七合五勺はおよそ1Kg125gです。
・餘 : あまり、その数より少し多いこと。
・不堪 : 我慢できないこと、もちこたえられないこと ここの不堪候は、「感謝にたえない-とても感謝している」の意。
・悽愴 : すさまじい
・擱筆 : 筆を置く、書き終える。
・熱禱 : 熱心に祈ること
我羊独語
1929年(昭和4)に出版された「我羊独語」は品川義介の最初の著書かと思われます。そこに1925年(大正14)6月10日の大町桂月死去を受けての6月15日付文章が記されています。これは家庭学校勤務期間(この年の12月末に退職)のことです。
大町桂月翁を懐ふ
嘗て青年渇仰の的となった一代の文豪桂月大町翁の長逝を知った余は一種の哀愁の情に鎖された。翁は僕の知己、国沢新兵衛博士の従弟である。
余が翁と個人的に知ったのは今を距る數年前の事であって、博士の紹介で翁を雑司ヶ谷の邸に訪ねた時に始まる。余は終始翁からは誠に善い印象を受けたが、先づ第一に驚かされた事は、翁の平然たる素寒貧な老書生振りである。あれ丈けの筆を持って居られた翁にして少しでも慾氣があったなら、倉の二つや三つ建てるのは譯もない事であったろう。然し翁は余りに淡白で金銭等には何等の執着が無かったらしい。翁の手紙の中に、「筆は一本なり、箸は二本なり、衆寡敵せずと知れ」と云う言葉がある。恐らく翁の実相であらう。
「大正十年の秋の事であった、北海道漫遊の途次翁わざわざ我がサナブチの農場へ立寄られた。余は農場を案内し、乍らその教育の主義を流汗悟道の四字を以てした、働いて汗を流す事が教育の本領であり、宗教の真骨頭である事を説明した、非常に感興を催された翁は、廻らぬロ - 翁の筆は勿論達者であったが口はどもりの方であった - で成る程それは愉快な言葉である、」流汗鍛練までは氣がついたが未だ悟道には想到しなかったといって、立ち處に立派な詩をものされた。
何須長廣舌 天地自開才
流出満身汗 孰知大道来
そして翁は語られる。「僕の四国には弘法の札所が八十八ヶ所ある、そして其の道路が面白いよ、若し今日の所謂教育家や宗教家があの道をつけたなら今少し短い且つもっと善い道をつけたに違いない。處が流石は弘法大師丈けあって意地が悪い、短かくつく道路をわざと長くつけ平坦につく道をわざと山の上へ引き上げ或は又谷の底へと引き卸したのである。だからどんな怠け者でも一箇所から一箇所へ行くには必ず一度は汗を流すのである。八十八箇所へ参るには少くとも八十ハ回汗を流さねばならぬ、人間が八十八回汗を流して拍手せば頼む向うに神や仏は無くとも其の人の願う功徳と應験とは與えられる。
之れが所謂弘法の流汗悟道である、恐らく君の流儀と同じであらう、ハハハハ」
余程気に入ったと見えて、翁はこの外にも、
師の家と宿舎の間花壇哉
蝦夷菊や谷の清水のちょろちょろと
花豆や三里四方に家三軒 【*注】
礼拝の堂にとどかぬ夏木立
等の数句を残された。
=中略=
明治文壇の耆宿として一代の渇仰を受けた柱月大町翁も、大自然の寵児となってその仙骨を蔦の山水に託されたのは實に大正十四年六月十日の事で、享年五十有七歳であった。新聞の伝える翁の臨終は、実に堂々大丈夫の死であった、 - 翁の知己であった小笠原氏が見舞いに出ると、安心したと云った様な面持ちで「蔦の人をみんな呼んで呉れ」とのことに、氏は直ちに女中を走らして村人を呼び集めると之でいゝと云ったやうに皆を見渡して「今歌を詠むから」と左の二句をロずさんだ。
みちのくの十和田の山に血を吐いて
其の儘死ねば我は本望
極楽に越ゆる峠の一休み
蔦の入湯に身をば清めて
と詠じ、其の儘何等の苦痛の色もなく静かに永き眠りに就いたのであった、 -
嗚呼、かくの如くして純情の大詩人も逝いてしまった。
生前の翁の好意を思へば今更ながら追慕哀悼の念に堪えぬものがある。 大正十四、六、十八
*注「花豆や三里四方に家三軒」は家庭学校で読まれた歌ではなく、9月3日の日記に記されていることから、家庭学校訪問の2日前に濤沸(佐呂間)から下湧別(湧別地区)の間で読んだと思われます。
・渇仰 : 深く慕うこと。
・長逝 : 永眠
・衆寡敵せず : 少数の人数が多数の人数と戦っても勝ち目がないことを意味する慣用句
・耆宿 : 学識・経験のすぐれた老大家。
「熊肉一斤 家庭学校 その3 の3 」につづく
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