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鉄道と家庭学校

 家庭学校が開校した1914年(大正3)に家庭学校所在地の遠軽えんがるには鉄道が開通していませんでした。留岡幸助氏は家庭的な教育、厳しい大自然の中での教育、そして宗教的な教育の場を現在地に求めました。


1914年(大正3)北海道線路図

 家庭学校北海道分校が開校した1914年10月5日には留辺蘂るべしべ駅から下生田原駅(現安国駅)までが開通(鉄道院湧別軽便線)していましたが、留岡幸助氏が家庭学校分校開校のために遠軽にやってきたのは、7月末でしたので、幸助一行は留辺蘂から遠軽までのおよそ45kmを歩くことになりました。

留岡幸助「自然と児童の教養」より
 
『さて愈々私は大正三年七月下旬に数人の同志を率いて社名淵へと移住した。当時の通路は上野から函館、函館から釧路行きの汽車に乗り、十勝の池田で網走行きに乗り換え北見の野付牛で一泊して、翌朝一番でルベシベまで行き、それから山道を十二里徒歩したのである。』

 なお、野付牛のつけうし駅(現北見駅)- 留辺蘂駅-遠軽駅 - 湧別駅間を結ぶ、国有鉄道(鉄道院)が設置した鉄道路線を湧別線と呼称していましたが1932年(昭和7)に石北本線(野付牛駅 - 遠軽駅間)と名寄本線(遠軽駅 - 中湧別駅 -湧別駅 間)に分割され消滅しました。

1914年(大正3)末の北海道線路図

1915年(大正4)北海道線路図

 家庭学校北海道分校開校の翌年には、下生田原(安国)から遠軽駅を経由して社名淵しゃなぶち(現 : 開盛)まで鉄道は開通しました。

1915年(大正4)末の北海道線路図

 遠軽駅、社名淵駅、そして家庭学校の位置関係は下図の通りです。社名淵(開盛)駅から川沿いの道路を進むか、遠軽駅から家庭学校に向かうかのどちらかの道を進みます。

1915年遠軽略図

留岡幸助先生頌徳碑

 家庭学校を創立した 留岡幸助(1864-1934)氏を頌徳しょうとく(ほめたたえること)する碑が1940年(昭和15)に建立しました。その裏面に刻まれた言葉から留岡幸助氏が「石北線開通陳情」に関わっていたことがわかります。

『 - 前略 - 乳牛の導入、水田の試作、産業組合の結成、冬期学校、季節保育所の開設、神を讃美する一羊会の例会、小学校の誘致、石北線開通陳情等、先生の発意と努力の賜物である。- 後略 - 』

校門向かって左側に建つ領徳碑

「かぼちゃ団体」の陳情

 1921年(大正10年)に名寄線が全線開通したことで、遠軽〜旭川間は8時間あまりで行き来できるようになりました。1910年(明治43)に始まる旭川・遠軽間の鉄道敷設運動が実ると、それが4時間短縮されることが見込めるため、食料や生活物資の物価上昇を抑えるためにも石北線の完成は遠軽・北見地方住民の願いでした。
  1923年(大正12)の関東大震災発生による復興計画推進もあり石北線工事の延期が決定されました。それに対し、遠軽・丸瀬布・白滝の有志が陳情団を編成し国会に直訴することとなりました。東京での食費出費を惜しみ、事前に届けていた大量のカボチャを煮て弁当箱を腰にひっさげて政党本部等の関係機関あちらこちらの陳情に向かい、時には国会控え室でカボチャ弁当で食事をとったりしました。その姿が「かぼちゃ団体」として繰り返し報道され全国的に有名になりました。
 陳情団の団長はマルキパンの丸瀬布農場を管理していた市原多賀吉が務めました。当初陳情団員それぞれが自己負担で上京する予定でしたが、マルキパン創業者の水谷政次郎が旅費を全額を負担しました。その額は旅費の倍額以上の大金でしたが、陳情団は旅費や宿泊費を節約し市原は「米すら食べられない貧乏なこの現状を理解してもらうため」との嘆願戦術を繰り広げました。
 なお、陳情団員一人の鈴木良吉氏は家庭学校の職員で、陳情団の東京到着前に寺院を宿舎とすべき交渉役を務めましたが警視庁の意向で断らたとのことです。

・鈴木良吉 1914年(大正3)に留岡幸助に先立つ1ヶ月前に遠軽にやってきた家庭学校職員 後に副校長・理事を務めました。
・水谷政次郎 マルキパンの創業者「東洋のパン王」、パン作りに欠かせないイースト菌の国産化に成功したり、パン製造ラインを構築するなど日本のパン産業の歴史に大きな足跡を残しましたが、1943年(昭和18)に大阪府食料営団に接収されパン工場を失いました。1950年(昭和25)小清水の農場で馬車から落下して亡くなりました。

1900年(明治33) 網走・常呂・紋別の 3 郡による北見鉄道速成期成会結成による網走線請願活動
1910年(明治43) 愛別村長太田竜太郎が北見峠踏破し、石北線ルート確認するなどの鉄道網整備関係町村連携運動
1912年(明治45) 旭川・遠軽間の鉄道敷設請願書を鉄道院総裁に提出
1915年(大正 4) 旭川と北見をつなぐ石北線開発期成同盟
1917年(大正 6) 旭川と遠軽をつなぐ鉄道速成期成会
1920年(大正 9) 石北線上川・遠軽間の承認
1921年(大正10 ) 名寄線全線開通
1922年(大正11) 新旭川・上川(ルベシベ)間の開通(ルベシベ線-石北西線)
1923年(大正12) 9月1日関東大震災の発生
1924年(大正13) 石北線工事延期の決定
        11月 かぼちゃ団体の陳情
1927年(昭和2) 丸瀬布遠軽間開通(石北東線)
1929年(昭和4) 白滝丸瀬布間開通(石北東線)
        上川中越間開通(石北西線)
1932年(昭和7) 中越白滝間開通し石北線と改称 全線開通

資料

北海道鉄道一千哩

 1916年(大5)に、北海道内の鉄道全路線(官営鉄道・北海道炭鉱鉄道・北海道鉄道)は、合わせて1,000マイル(1,600㎞)に達しました。

北海道鉄道一千哩記念絵葉 1916(大5)

北海道炭礦鉄道

 1880年(明治13)官営幌内鉄道により手宮(小樽) - 札幌間が開通し、北海道の鉄道が開業しました。1889年(明治22)に手宮(小樽市) - 幌内(三笠市)間の鉄道路線は北海道炭礦鉄道に譲渡され民間経営となりました。

帝国鉄道要鑑 1906

北海道鉄道

 函樽かんそん鉄道として1896年(明治29)に設立され1900年(明治33)に北海道鉄道に改称しました。1905年(明治38)に函館・小樽間が開通し、北海道炭礦鉄道に接続しました。

帝国鉄道要鑑 1906

北海道官設鉄道

 北海道北部・東部の開拓の推進のために、1896年(明治29)に北海道鉄道敷設法が公布・施行され、北海道庁自ら鉄道建設・運営を行うこととなり、1898年(明治31)の滝川 - 空知太間の開業を皮切りに、現在の宗谷本線、根室本線(富良野線)等を開業していきました。

帝国鉄道要鑑 1906 第3版

1912年(大正元) 鉄道路線図

1961年日本国有鉄道広報部発行:「国鉄365日」より

名寄線開通記念絵葉書

 1921年(大正10年)10月5日に名寄本線は全線開通となりました。この路線には中湧別から分岐して湧別に至る支線4.9kmがありました。
 1989年(平成元)5月1日に廃止となりました。

鉄道省北海道建設事務所発行 東京印刷株式会社印行

ルベシベ線 新旭川上川間全通記念絵葉書

 1922年(大正11)に石北線の一部となる新旭川・ルベシベ(上川)間が開通しました。ルベシベ線として計画完成し、石北西線と呼ばれるようになりました。

ルベシベ
 現在の上川町市街地区は留辺志部るべしべと呼ばれていましたが愛別村から分村する際の新村名称が1921年(大正10)に「上川」と決定し、1924年(大正13年)に「上川村」が成立しました。

鉄道省北海道建設事務所 大正12年11月発行

石北線丸瀬布遠軽間開通記念絵葉書

 1927年(昭和2)に石北東線として開業し、瀬戸瀬駅・丸瀬布駅が設置されました。

石北線丸瀬布遠軽間開通記念絵葉書

1929年(昭和4)には石北東線が丸瀬布から白滝駅まで延伸されました。

石北線全通記念絵葉書

 1932年(昭和7)10月1日に石北線が全通し、旭川から北見・網走方面を結ぶ鉄道が開通しました。

石北線全通記念絵葉書より遠軽市街の様子
石北線全通記念絵葉書より石北トンネル

オホーツクの鉄道路線敷設の経緯

 1900年(明治33)に網走・常呂・紋別の 3 郡による北見鉄道速成期成会が結成され、網走線請願活動が開始されました。この時点では帯広にも未だ鉄道が敷設されてはいませんでした。

1900年(明治33)の鉄道敷設状況

 1910年(明治43) 愛別村長太田竜太郎が北見峠踏破し、石北線ルート確認するなどの鉄道網整備関係町村連携運動が開始されました。

1910年北海道鉄道敷設状況

1912年(明治45) 旭川・遠軽間の鉄道敷設請願書を鉄道院総裁に提出
1915年(大正 4) 旭川と北見をつなぐ石北線開発期成同盟
1917年(大正 6) 旭川と遠軽をつなぐ鉄道速成期成会
1920年(大正 9) 石北線上川・遠軽間の承認
1921年(大正10 ) 名寄線全線開通
1922年(大正11) 新旭川・上川(ルベシベ)間の開通(ルベシベ線-石北西線)
1923年(大正12) 9月1日関東大震災の発生
1924年(大正13) 石北線工事延期の決定
        11月 かぼちゃ団体の陳情
1927年(昭和2) 丸瀬布遠軽間開通(石北東線)
1929年(昭和4) 白滝丸瀬布間開通(石北東線)
        上川中越間開通(石北西線)
1932年(昭和7) 中越白滝間開通し石北線と改称 全線開通


 北海道の鉄道 開通から 2030 年までの推移については、浜田 鋭一氏の北海道鉄道史にとても詳しくまとめられています。

writer Hiraide Hisashi


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