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家庭学校とステッセルのピアノ その1

 北海道家庭学校にはステッセルのピアノと呼ばれるピアノがあります。これは少なくても120年以上前に製造されたピアノです。


日露戦争

 日露戦争(1904:明治37年2月-1905:明治38年9月)は、中国東北部(満州)と朝鮮半島の利権をめぐる日本とロシアの争いが原因の戦争です。

ステッセル将軍

 ステッセル(アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリАнатолий Михайлович Стессель1848 - 1915)は、ロシア帝国の軍人で日露戦争における旅順要塞りょじゅんようさい司令官、ロシア関東軍司令官です。旅順攻囲戦で日本陸軍の 乃木のぎ希典まれすけ率いる日本軍と戦い、旅順要塞降伏開城を指揮しました。

旅順要塞ようさい

 旅順要塞は遼東半島先端部の旅順にあった要塞です。日清戦争(1894-1895)後にロシア帝国は遼東半島を清から租借し、旅順港はロシア海軍太平洋艦隊の基地として使用されていました。
 ロシアは清が築いた要塞に機関銃の導入など大規模な強化を行い東鶏冠山北堡塁とうけいかんざんきたほるい、二竜山堡塁、松樹山堡塁などが設置されました。

堡塁ほるい : 敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のこと
水師営すいしえい : 海岸や河の軍港近くの中国清朝・北洋艦隊(北洋水師)隊員の駐屯地のこと

旅順攻囲戦りょじゅんこういせん

 1904年(明治37)8月19日 に始まった旅順要塞をめぐる戦いは、1905年(明治38)1月1日になりロシア関東軍司令官ステッセルが降伏を申し入れ、5日に水師営すいしえいで降伏文書の調印が結ばれました。この様子は文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われました。

鹵獲品ろかくひん

 日露戦争時にはロシアの兵器を中心に様々な物品が大量に日本に持ち帰られました。乃木軍が報告した「旅順鹵獲品」の記録が「日露戦争大本営公報集」と「第七師団日露戦役紀念史」それぞれにあります(資料参照)が、この中に「ピアノ」を見ることはできません。
 旅順はロシアが1898年から「旅順大連租借に関する条約」により清から租借(1900年からは遼東半島全域を占領)していた遼東半島の都市です。そこには、ロシア軍人の家族やロシア人を含む民間人も多数居住する人口1万人を超える街でしたので、ピアノも相当数があったと推測できます。
 その内の少なくても5台のピアノが日本に持ち帰られ「ステッセルのピアノ」として知られていました。

ステッセル婦人愛用のピアノ

戸山学校のピアノ

 陸軍戸山とやま学校は、歩兵戦技・歩兵戦術・体育そして軍楽の教官・生徒の育成と研究を行う学校でした。そこには、現存確認はできませんし明瞭な写真もありませんが「ステッセルのグランドピアノ」がありました。

目で見る吹奏楽百年史:山口常光 著 より
右端に見えるのがステッセルのグランドピアノと思われます

   敗将婦人のピアノ
 その戸山学校の一隅に、調律場という名称の木造モルタル塗りの建物があった。軍楽隊の訓練場であり、見学者来隊時の演奏会場であり、軍楽生徒の各楽器末試験場でもあった。
 そのステージに、欧風の、いかにみ優雅さをたたえた古典的作りのグラウンドピアノがあった。制作名は忘れたが、音質も固く、キイの象牙も所々はげていたりしたが、このピアノは日露戦争役当時、旅順の守将であったステッセル中将の夫人が愛用していたもので、戦後、戸山学校に存屋するのが1番場所を得ることになるというので、えんえん旅順から運ばれてきたものだと教えられた。我々日本人の観念からいえば。二年が三年になろうとも、最高司令官以下、戦地への家族同伴など、考えも及ばなかったものであるが、要塞守備ともなれば半永久的な構えとなって、ロシア軍では殆どが、旅順に家族を連れていったもののようである。ピアノにまつわる数々の説明をきいて、改めてそのキイに触れてみると、旅順哀史の一頁がピアノにも深々と刻まれているようで、私にとっては印象ぶかいピアノであった。ついでながら、世界を衝撃とせた旅順の攻防戦で、ロシア軍の敗色もようやく色濃くなってきた頃、最後の大逆襲をくりひろげた露軍の先頭に、軍楽隊が楽を奏しながら加わったことは、日露戦役秘話にも出ているが、こういう史実を読むと、殺りくの絵巻の中に、一抹の悲愁と、何かしら優雅さをさえ覚えるのである。

 「吹奏楽と私」松本秀樹氏 著
1933年(昭和8)に陸軍戸山学校軍楽科を卒業し陸軍軍楽隊、陸上自衛隊副隊長、航空音楽隊初代隊長、警視庁第3代音楽隊長を歴任

金沢学院大学のピアノ 

 
 パリのロドルフ社製 1880頃製造

金沢学院大学の復元された漆塗りピアノ

 石川県金沢市に本社を置く北國新聞ほっこくしんぶんは、創立百周年記念事業として金沢学院大学のステッセルのピアノの修復を企画し、テレビ金沢(KTK)がその経緯を五木寛之氏の監修・出演によるテレビ番組としました。
 1993年(平成5)7月31日に放送された「ステッセルのピアノ 運命のピアノが奏でるレクイエム 」は、ピアノ復元作業の様子を織り交ぜつつ、五木寛之氏がパリ、サンクトペテルブルグ、旅順、金沢そして遠軽などのピアノゆかりの地も訪れ、秘められた日露戦争の逸話を紹介しました。
 なお、ピアノ外装は人間国宝・大場松魚氏と寺井直次氏を中心とする石川の工芸家による漆塗り、本体は浜松のヤマハ本社で修復されました。
 五木寛之氏は同年8月には書き下しで「ステッセルのピアノ」を文芸春秋社から出版しました。この出版とテレビ番組放映が広くステッセルのピアノを知らせることになりました。

水戸市立大場小学校のピアノ

  ドイツのグロトリアン・スタインウイッヒ社製 1886年頃製造

ロシア艦船搭載のピアノ

 乃木大将とステッセル将軍が会見したおり、将軍の世話をした飛田大佐が気に入られてプレゼントされた将軍愛用のピアノを飛田大佐の大場村凱旋時に寄付したと信じられていた朽ち果てたピアノを1988年(昭和63)に修復することになり、そのことが日本国中の新聞に掲載されました。翌年には修復済みのピアノでの演奏会が開催されましたが、その間このピアノの素性が明らかになってきました。

1)横須賀海軍工廠兵器庫に保管されていた日露戦争日本海海戦時に拿捕したロシア艦船アリヨールに搭載のピアノが大場小学校のピアノだと思われる。
2)飛田一成海軍主計特務少尉が兵器庫に保管されていたピアノを妻の出身校の大場小学校へ、妻の遺言により贈ることとした。
3)当時の大場小学校校長が海軍省に寄附願いを提出する事で、払い下げが1922年(大正11)12月11日付で実現した。
4)飛田少尉は海軍所属で、旅順はもちろん日露戦争にも従軍していない。

 日露戦争由来のピアノではありますが、ステッセル将軍とは関わりのない品だということがわかりました。

旭川北鎮記念館のピアノ

    上海のモーリー社製

 屯田兵や陸軍第七師団だいしちしだんに関連する資料を展示し、近年は漫画「ゴールデンカムイ」の聖地としても知られている資料館に「ステッセルのピアノ」は展示されています。

 旅順攻囲戦の激戦地203高地で主力として活躍した第七師団は、1906年(明治39)このピアノを旅順から旭川に持ち帰りました。旭川のピアノ第一号とも言われ、軍人子弟が学ぶ北鎮小学校で使われた後、旭川郷土博物館、進駐軍による接収、市内ダンスホール設置、そして料亭と所在地が転々とした後に再び市立博物館の所有となり、現在は北鎮記念館に貸し出されています。なお修復されていないので残念ながら音を鳴らすことはできません。

北鎮記念館

北海道家庭学校のピアノ 

 ドイツのポールエマーリング社製

 現在、家庭学校博物館にひっそりと展示されているこのピアノは、1907年(明治40)3月に巣鴨家庭学校が陸軍大臣から下付されたことが家庭学校年譜に記されています。なお、この年譜は著作集第3巻に記された前後の内容から1914年(大正3)4月頃に開催の会議のために作成したのではないかと推測できます。

留岡幸助著作集 第3巻 P319 大正3年

 留岡幸助氏が編集発行していた機関誌「人道」第26号(1907年:明治40年6月5日発行)には陸軍省からピアノの寄贈をうけたことが記されています。

機関誌「人道」第26号 明治40年6月5日

 ピアノは巣鴨にやってきてから25年後の1932年(昭和7)に、東京から遠軽に運ばれ家庭学校礼拝堂に設置されました。その後長く礼拝堂で様々な場面で使用されていましたが、いつしか満足に演奏することが出来なくなっていました。

1932年(昭和7)8月ハーモニカバンドの演奏会
左側にあるのが到着直後のステッセルのピアノ

 五木寛之氏が1993年(平成5)にテレビ金沢制作の「ステッセルのピアノ 運命のピアノが奏でるレクイエム 」取材のために家庭学校を訪れました。このことが翌年に控えていた北海道家庭学校開校80周年に向けてのピアノ修理の大きなきっかけとなりました。

 1994年(平成6)9月3日にはヤマハ浜松工場での修復を終えたステッセルのピアノを使い、札幌大谷大学教授木村雅信(1941 - 2021)氏のピアノによる特別演奏会が開催されました。

1994年(平成6)9月3日

 また、北海道家庭学校開校90周年2004年(平成16)3月には、植田克己氏(ピアノ:東京芸術大学名誉教授)、村井祐児氏(クラリネット:東京芸術大学名誉教授)による演奏会も開催されました。
 その後、礼拝堂にグランドピアノが設置されたこともあり、ステッセルのピアノの使用機会は途絶え礼拝堂の片隅に置かれたままになっていましたが、2014年(平成26)に旧桂林寮の内部を全面改装してリニューアルオープンした家庭学校博物館に展示されることになりました。

ピアノメーカー
 家庭学校のステッセルのピアノには、鍵盤蓋の裏側についている譜面台の下部にピアノメーカー名等が記されています。

PAUL EMMERLINGポールエマーリング, ZEITZツアイツ.
SPECIALLY MADE FOR DEMPFH CLIMATE湿地帯仕様に特別に製造
ORDERD BY 依頼主M. HAIMOVITCHM.ハイモヴッチ.
 ポールエマーリングは製造会社名、ツアイツはドイツの工業都市名

家庭学校とステッセルのピアノ その2

立誠りっせい小学校のピアノ

 ドイツのグロトリアン・スタインヴェッヒ社製
  * 水戸市立大場小学校のピアノと同じメーカーです。

元 立誠小学校のピアノ

 京都市木屋町通のホテル、店舗、多目的ホールなどの複合施設「立誠ガーデン ヒューリック京都」の1階エントランスには、日露戦争の戦利品とも言われることがあるというピアノが展示されています。
 このピアノは1869年(明治2)開校の京都市立立誠小学校が現在「立誠ガーデン ヒューリック京都」として利用されている1927年(昭和2)完成の鉄筋コンクリート造校舎に移転してきた時にはあったとされています。

 ある程度の修復がすでになされているとのことですが、2024年(令和6)9月から12月末の期間で、このピアノの修復のための募金が呼び掛けられています。外観を含むさらなる修復が計画されているとのことです。募金呼び掛けのパンフレットでは、「グロトリアン・シュタインヴェーク製ピアノ」(1927年・昭和2年ドイツ製造)とされていることがわかります。いくつかのネット情報には「日露戦争の戦利品」とも書かれていますので真偽が明らかになることを期待しています。

立誠自治連合会 http://www.rissei.org/
昭和3年立誠小学校唱歌教室

 もしもこのピアノに製造番号があったり、あるいは現在もピアノ製造会社として存続するグロトリアン社の技術者がこの楽器を調査することがあれば、製造年が明らかになるのではないかと思います。もし、日露戦争の戦利品であれば「ステッセルのピアノ」と呼ばれるピアノとも言えます。何か夢があります。

 *2024年10月17日現在、立誠自治連合会に問い合わせをしていますので、何かがわかるかもしれません。


資料

旅順鹵獲品

 (一月中二日午前三時大本営着電乃木軍報告)
昨十日迄に堡塁、砲台、艦船、兵器其他物件の受領を終れり其のひの品目数量大役約左の如し
一、永久堡塁、砲台       五十個
二、兵器弾薬車両等
  大口径火砲        五十四門
  中口径火砲       百四十九門
  小口径火砲      三百四十三門
  火砲弾薬       五百四十六門
  砲 弾     八万二千六百七十発
  水 雷           六十個
  弾 薬       千五百八十八個
  火 薬          三万吉羅
  小 銃    三万五千二百五十二挺
  拳 銃        五百七十九挺
  軍 刀       千八百九十一振
  小銃実包  二百二十六万六千八百発
  弾薬車          二百九十
  輜重車          六百〇六
  雑種車           六十五
  乗馬具           八十七
  輓馬具        二千〇九十六
三、電 燈            十四
四、電信機            十五
  電話機          百三十四
  回光通信機           三
五、土木器具        千百七十一
六、馬 匹        千九百二十頭 
七、艦船艇
  戦 艦 「ペレスウイット」以下四隻
      (「セパストポール」は全く水底に在るを以て之を除く)
  巡洋艦    「パルラダ」以下二隻
  砲艦、駆逐艦        十四隻
  汽 船            十隻
  小蒸気船           八隻
  雑 船           十二隻
  其他民有船          若干
  以上は皆破壊若くは没沈せねもの
右の外多少の修理を加へ使用し得し小汽船三十五隻あり

堡塁ほるい : 敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のこと
輜重車しちょうしゃ : 弾丸・食糧などの物資を運搬するために使用する馬一頭で曳く木造の荷馬車 

ロシア製大ラッパ

日露戦争の記念品大ラッパ
 乃木大将はステッセルから馬を貰ったが、それだけでなくして、露軍々楽隊の大ラッパをも貰って帰ったという。のちに大将が学習院長になったとき、その大ラッパを学校の音楽室の装飾にしておいた。それがのちに同校卒業生の音楽愛好者、岩井貞麿氏に払い下げられ、岩井氏は鍋島子爵の出費で、修理し、戸山学校軍楽隊に寄贈したが、戸山学校では日露戦役の際露軍が使っていた記念品として、靖国神社に奉納した。 写真 真中のがそのロシア製大ラッパである。

目で見る吹奏楽百年史:山口常光 著 P26
ロータリー式ヘリコンバスと思われる

日露戦争俘虜「取扱顛末」より

「アナトリー・ステッセル以下陸軍将官七人及海軍将官四人ヲ始メ陸海軍将校五百五十人文官等八百七十七人ハ開城後直ニ所要ノ宣誓ヲ為シ従卒家族等ト共ニ長崎ヲ経由シテ帰国ノ途ニ上」ったのである。
 これに同伴した婦人、小児、保母等は百二十六人だったとも記録されている。

writer Hiraide Hisashi


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