MOOSIC LAB所感①穐山茉由『月極オトコトモダチ』の構造
最近インド映画ばかり見ていたせいもあるが、父権性と、対する母権性(=破壊神シヴァとセットであるドゥルガー)が争うこと=法を都度立法させるような映画ばかりなので、今作を見始めた時は、邦画のほっこりとしてもっさりとした、なんとも言えない繊細な、一つ一つの毛は鋭いのに密集して生えていることで心地よい毛並みとなり、結局毛のことがわからなくなってしまうようなドラマの始まりに頽廃感すら抱いたのだが、とてもとてもよい映画だった。
友情とは何か!そしてそれが恋に変わるとすれば如何にしてか。その分水嶺は何なのか。なぜ友人という安定した関係性を宙づりにして、賭け金とするリスクを背負ってまで彼/彼女に自己承認を求めるのか。そしてそれを以て「恋人」という疑似契約を結んで、そのせいで傷ついたり傷つけたりしてしまうのか。それ以外に関係性はありえないのか?
つまりは友情とは何か、友愛とは何か、『リュシス』以来の永遠の問がこの作品も貫いている。しかしそれは絶妙な仕方で、なのだ(ここがカレーとして映画を味わうのではなく、醤油に刺身を浸すようにして映画を見たり作ったりする邦画的な感性があるというのだろうか)。
映画はアラサーweb編集者・ライターの女性(徳永えり)が抱える人間関係についての適当さ(適宜性)、臆病さ、真面目さ・真剣さをめぐるお話であり、大変普遍的かつ重要な問題を扱っている。
レンタル男トモダチ(橋本淳)との関係は、徳永えり演じる主人公が30代を手前に次第に自己コントロールも可能になり、そのことで面白くなってきた彼女の仕事のためにはじまった。彼を取材してウェブコラムを書こうと思うのだ。そこで彼女自身が夢中になれる問:「男女間の友情は存在するのか」というテーマで書くことにしたので、レンタルトモダチにインタビューすることで、問を深めようとする。その企画は、問のポップさ(凡庸さ=敷衍可能性)と相まってヒットする(彼女は充実した表情だ。仕事は実存を絡めると面白くなる時がある)。しかし問は凡庸でも彼女の実験精神は稀有だ。なぜならそれは大きな問題を問うことになるからである。「友達」は実は簡単に「仕事」と割り切ることができぬような実存を含みこんだ企図なのである(だから本当は仕事も「仕事」と割り切ることができない)。取材は休日の趣味と区別がつけられなくなるし、男女である彼らはまるでデートをしているようだ。タイムカードの存在だけが普通の友人関係と異なるが、レンタルフレンドは優しくだんだんと契約履行が緩くなってくる。彼女も「仕事ゆえに」すべてを受け入れてくれるレンタルフレンドの心地よさにほだされて、風邪を引いてしまった時に彼を呼んでしまう(まるで出入りの業者が細々したことを無料でサービスしてくれるみたいに)。そこから彼女と同居しているミュージシャン志望の女性(芦那すみれ)が帰宅し、彼と意気投合、共通の実存的企図=音楽を持つもの同士レンタル抜きで友人関係へと発展することから、話は転調する。
思うに「仕事」を盾にした人間関係は、契約関係、つまり社会的なエートスを背景に持つ(社会学が対象とすべき)外的なものに擁護された強固な関係性だ。契約不履行は社会的な制裁、例えば罰金や罰則の対象になるために、この関係は他と他の結びつきにおいて便利なので広範に利用される。それは結婚もそうなのだ。愛の山頂から転がり落ちて、あれ?なぜあの時私たちは口づけなんてしあったのかしら?愛し合っているから?では結婚、山頂から離れてしまっても、その出来事に殉じるべく、そして家族という社会制度を(再)開始する。不履行には慰謝料を。そうして社会は成り立っている。
むろんこれらはすべて作り事なのだ。しかしそれを無いと言い切ってしまうほど甘い現実認識を表明することも愚かである(現実は虚々実々なのである)。問は初めから、この契約関係ではない、つまり婚姻に結びつかない形での永続的な男女間の関係=友情が存在するか?と問うているのだ。規範的な、ノルム的なものに対するクィアな問はなぜ要請されるのであろうか(インド映画ではなくなぜ邦画が今日においても生産されうるのか)。
編集長にプロ意識を刺激され、下手クソにもレンタルフレンドの家に泊まることに成功する徳永えり。レンタルフレンドは仕事としてsexもするのか(〇〇活と準-仕事的な表現に置き換えられた売春と何が異なるのか)、それとも自分とだからするのか?(ではそれは恋愛なのか)。外的なものによって支えられている関係ではない関係になろうとする時、未踏の人間関係、個物である私とあなたの他ではない唯一の関係性に至ろうとする実験において、二人は混乱をきたしてしまう。橋本淳に仕事だから?と詰め寄る彼女は、実は自分だってweb記事のために書いていたことが明るみにでてしまう。お互いに「仕事」だった。でもそれを超えていくことを求めるのか…。彼女の限界=今の限界がわかる弁のような時間。十代のように恋のためにのみ存在できるのではない。様々な社会的関係性の線の中で、彼女にとり記事を発展させたいということと、橋本淳との関係性を推し進めたいというこの「現実」を切り分けて理解することはできないのだ。急に「現実」があらわになった。様々な潜在的問題が顕在化してくる。同性同居人との関係(いつまでこんなモラトリアムを続けるのか/彼のこと好きかも/音楽やっているからって私のこと馬鹿にしているのか)においても問題が顕在化する(潜在→現働化)。痛々しい問いかけ、現状・三角関係・才能について激しく問い合うことは、結局これからどうしたいのか=夢や希望という脱領土化の線を発生させる。なぜ恋ではなく「男女の友情」という迂遠なテーマが彼女の中で問題だったのか、それは、結局女友達同士でやっていくことの困難さについても、問の裏地として機能しているようだ。永遠に仲良しだと思っていたのに一人の男を愛してしまったら二人は敵同士になってしまうのか(それがインド映画の問題である)。だから何かを取り合うことのない男の友達を彼女は所望したのか? しかしではそれは恋や婚姻に結びつくものと何が異なるのか…? 問うからこそ線が引かれる。それが進展というものだ。いろいろあって、三人は共に作品を作ることにする。これは、徳永えりが二人の仲間に入れてほしかったということでもあるが(関係性の修復、本来友人関係は家族関係とは異なり回復させることは(完全)義務ではない(義務ではないからこそ、不断の努力によって支えられているのだ)。本当は家族もそうなのであるが、それでは関係性を涵養することができないので、タブーとされる。そしてそのタブーの存在が家族をめぐるエートスを形成している。いまこの家族の規模や存在を私たちは考えなおしている。だからこそ婚姻関係という家族の基本単位抜きの、信頼に値する関係性は可能か、本作のような問が発せられるのだ。そしてそれは愛を当然のごときものにしてしまうことがない、形式化を超えた友愛の実践を要求する。それに我々は耐えられるのか、その不安とともにやっていけるのかという問なのだ。それは無論友情と家族の双方において賭けられている問なのだ。つまり他者とやっていくということはどういうことか)、作品を作ることは、仕事としてwebであることないこと書いていたことを超えて、実存としてどうしていくのかということを表現してもいる。あまりにも映画の出来事そのままな歌詞が、フィクションこそ現実をクリアに認識する「言葉」なのだということを理解させる。何とかやっていくことによって崩壊を免れ、難着地に成功する(ある程度大人なので皆優しい)。つまり敵対は彼女にとり杞憂だった。しかし、やっていくということは関係性を完成させないことでもある(契約抜きでこの不安を御していかねばならない)。ということは、結局また三角関係はまたもつれるかもしれない。この不安を以てしても、皆でやっていく気負いが回復されなければならないのだ。外的な社会表象によって契約関係=仕事的な関係によって安心・当然のものとして地層化してしまうのではなく(結局ここが褶曲を起こすので熟年離婚とか、諸々のドラマがまた生起するのだが)、実験していくこと(好きと言ってしまうとそれは恋人という疑似契約関係となってしまうからだろうか、そうは言わない)を肯定する。
この映画=実験を振り返ろう。(mixである世界=現実を腑分けするに、その未踏を踏みしめるべくここは九鬼周造という先達に倣う)暫定的な把握であるが、関係性についての適当さ・臆病さ・真剣さ、この関係性における三つの方向性が徳永えりの関係性を揺さぶる(それは同時にすら起きるだろう。なぜなら関係性とはこの3つの波間のことを言うからである)。徳永えりの表情は黒目がちなところも相まって、この互いに峻別することのできない近傍を含みあう相を美しく表現している。適当にイージーに物事を御していくときの、かわいらしく笑顔で得意そうな顔、一点を見つめて小動物のような不安げな怯えた顔、そして何かを決めた時の、これまた一点を見つめ、しかし得意げな時の笑顔が混ざりこむ(そうだ、不安を得意げに乗り切る時人はこういう顔をしているだろう)、真摯に物事に向き合う顔。その中で彼女は、彼女自身に、そして彼女と彼自身となろうとした(それらは与えられない。だから問は画面外へ広がっていく)。そして、このような入り乱れる力の機微を制御した穐山監督の才も際立つ。
そうした3つの相は、映画を牽引していく現働的な力であった。どういうことか。彼女が結局アラサーになって新たに人間関係を創始することに億劫になっていること(映画冒頭を参照。なぜかと言えば彼女は仕事も、芦那すみれとの関係にも満足しているのだ。一応二人の家は簡単に破られるが「男子禁制」)。そして、その億劫さは、この現状に一抹の不安を感じながらも変えてしまいたくない臆病さ、そして橋本淳と出会って今更恋をすること、そしてもし関係が乱れたとして、十代のように傷ついているだけで日々を過ごせなくなっている自分を防衛するために予め危機に近づかないこと、だからこそ契約という安心立命の仕事的関係(なぜなら彼女は今ここから自信を得ているから)を履行することに対応している。そしてそれは何より、すべての映画となった問題は彼女の真剣さがもたらしていることなのだ。恋愛とは、友達とは何なのか、仕事とは言え本物の自分のテーマを追いかけているからこそ(コラムは小説と異なり、彼女の意に完全に沿うものではない)、問われる。問題的なものだけが生起しているのが世界なのだ。
未踏の人間関係に至ろうとするからこそ、その不安定な足場を確保するために契約関係が参照された。では僕らはいつか、そうした歩行器なしで(最大の歩行器である神なしで)歩きだせるだろうか。実験はまさに、赤子がおずおずと歩き出す一歩から始まる。赤子は企図を繰り返して学び、失敗の連続から臆病さという防衛を手に入れる日が来るだろう。しかしそれでも最初の一歩、その時の全世界が自分の企図を受け入れた時の、その歓喜を忘れないことだ。つまりは実験を続けること。世界も、映画も終わることはない。
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