作品内作品について(さらに書くために枚挙し、蕩尽すること)
ゲリラ諸評の思い出
かつて書いた文章を少しずつ放流していきたいと思う(人生はすでに始まっているのだから!)。かつて北大の文系棟を中心にばらまいていた「ゲリラ諸評」では、友と共に評論のルネサンスを開始すべく、作品鑑賞の衝撃を伝えるべく、そのことを享受すること自体の悦びについて触れながら、作品について書きなぐっていた。なんだかんだで読者はいたようで、反響を聴いたことがある。以下はおそらく2019年に札幌の劇団:風食異人街の『青森県のせむり男』を鑑賞してきたあとの、ゲリラ書評21。
(作品内作品について採集をはじめ、しばらくたった今では、これからする話は純粋な作品内作品、作品の中に登場する作品(劇中劇、画中画など)とは少しずれて、フィクションそれ自体であるような何か(特に今回は「作品その人」であるような作中人物)が登場するフィクションと分類可能かもしれない。作品内作品には当該ジャンルにおいて、そのジャンルにおける芸術を如何に成立せしめるのか方法論的な問題に踏み込む特別に自己言及性のあるものと(先ほどこれを「純粋」と表現した)、小説の中の絵や音楽など、別なジャンルの芸術の中に登場する芸術作品の2つの系統がある。前者の自己言及性にも諸相あり、例えば映画内映画は、映画の中で映画を見ていなくても、窓や静止した暗闇から光景を見る描写があれば、それは映画についての自己言及とみなせる(ヒッチコック『裏窓』、タル・べーラ『サタンタンゴ』など)。後者は、小説に記述の内容を与えながらそれ自体がアレゴリーになっていたり、作中人物にアレゴリカルな認識を与えたりする(作品内作品と作品が等価であるから、ナボコフ『青い焔』のように註と本文を逆転させることができるのだ)。以下で説明する「作品それ自体」「作品その人」はどちらの場合もあり、例えば『ドグラ・マグラ』の中に出てくるテキスト『ドグラ・マグラ』は、根拠なきテキストそれ自体にゆるぎない根拠=円環を与える。ヴォイチェフ・ハスの映画『サラゴサ写本』の中でサラゴサ写本が果たす役割である。対して、あらゆる作品の冒頭での風景描写など、アレゴリカルに差異を超えて、作中に見出される反復として作品に基調を与えるものもある。音楽内音楽は、何を範に採るかで前者と後者の両パターンがあるが、dazed and confusedやyou made me realiseだと全く違う音楽が始まることを念頭に置くと、作品内作品、あるいはもっと言えば芸術内芸術はまさに、そのまま別な作品へのジョイントともなっているともいえる。そもそも時間芸術である音楽は、主題とその変奏により成り立つ。そして写真は、そもそもその内容として、他の芸術作品それ自体を主題とすることもできる(石元泰博による「桂離宮 古書院」など、明らかに作品を別な作家がそのパースペクティブにおいて再提示=批評可能であるジャンルとして写真がある)ので、作品内作品は作中を飛び出して別な作品へ我々の目を向けることが可能だ。自己言及性による根拠(と根拠の無さ)と、他の作品へのジョイント。この二軸が今のところの作品内作品を特徴づけるものといえる。しかし同時に、ミハル・アイヴァス『黄金時代』における作中作の中の作中作の話や、作中作の彫刻の構造と作品自体が同じ構造であることを示すような作品もあり、諸ジャンルの差異による区別はできず、たった一つの表現すべき作品の部分と全体というような仕方で、2つの働きが結合されて円環を描くこともある。あるいは、こうした円環自体を味わうことが芸術について観想すべきことなのであり、機械としての作品、作品とは作品であるという、アートロジーなのかもしれない)
先日、風蝕異人街の舞台、寺山修司作『青森県のせむし男』を鑑賞してきた。『せむし男』は今回で四回目の鑑賞となる。社会人がメインの劇団で、メンバーの若年化が進んだためにダンスパートが多数となって後景に退いているが、諸バージョンを繰り返し見ていつも気が付くことは(反復)、劇の存在が嘘であることが反復されているということである。
念のための絵解き(みんな大好きネタバレ?しかしこれでばれる「ネタ」とは?
「これはこの世のことならず」と初めから説かれ、いつものように(『百年の孤独』でもそうだ)、ストーリーは解説役から語られるのみ。せむし男である松吉は、生まれた時に殺されて既に存在しないはずなのに、松吉を名乗る男が現れる。松吉はオイディプスのように、生きていたのか? そんなことはなく、赤子の松吉を殺したのは、生きているかもしれない松吉の帰りを待っているとされる母その人であったことが明かされ、この話、この劇自体が否定され、登場人物たちはオバケのように宙吊りにされる(松吉を予め失った母の、「肉で拵えた仏壇」への祈り?あるいは不可能な妄想?『ロスト・ハイウェイ』?)。
『田園に死す』でも少年時代を映し出した後で、「私の少年時代は私の嘘だったのである」と述べられる。寺山作品における母と子の淫靡なフィクションは何度も繰り返されては変奏されるために、やがてはモジュール化し、組み替えられて舞台が作られもする(『身毒丸』など)。反復と遺骸的類似(ブランショ)。それが作風、作家性というやつだ。
では存在しない劇中の人物松吉とは誰?
松吉は舞台で「青森県のせむし男でございます」と自ら名乗りをあげていた。つまり彼は作品内作品、作品それ自体の自己言及なのではないか。そして松吉が存在しないと解るまでが劇なのだ。劇は存在しない、架空であると解って終わるまでが劇なのだ。私は私である。そして私はいない。我々の鑑賞している間だけ、劇はそこに存在するのである(ex.『不在の騎士』、あるいはナボコフ『ロリータ』※1)。
作品内作品とは何か
楳図かずお『わたしは慎吾』。正体不明の語り手の超越的時制からすべてが語られる(ex.トラルファマドール星の時間、『エンパイアスター』のジュエルの属するメタ時間である)本作は、小学生である悟と真凜の息子として自我を持ったロボット:慎吾が誕生し、コワレルまでのお話であると言います。巻き込まれた人々は子供であっても容赦なく景気よく死んでいく。慎吾が意志を獲得し、そして自らを破壊しながらたどり着くのは、遠い遠い土地で巻き起こる真凜の危機である。そこで慎吾は自分が慎吾と真凜の子であること以上に、真凜の危機にも関係する不買運動の対象であった悪意ある日本製のおもちゃの生産に関わっていたかもしれないという内在的な理由を知り、しかしそれすらも超えて、もっと高次の悪意(あるいはアイ)の産物であるところの自らに思い至る。なぜ真凜が危機に合うのかと言えば、それはこの作品が楳図的ホラーとして展開しているからである。作品=慎吾がそのように創造されたからそうなのである(トートロジーだ)。無生物の暴走、それは作品が暴れだすということであり、暴れだしたモノだけが作品なのである。
例えば映画『ハードウェア』。ハードはアイディアの砂漠から見つけてこられ、諸形式として反復され、やがては再生産され普及する。これは資本主義に包摂されつつ、その限界へ至る創造的アレンジメントの形成それ自体の映画化なのだ。サイバーパンクな世界の砂漠で見つけられた謎の機械の遺骸は、最新兵器のモデルであったのだが、そうと分からぬ作中人物たちの間で取引され(見かけ上の利益をめぐる交換のモードをまず経て)、最初にヒロインの手で芸術作品の位置を得る。続いてホラー的に自己再生した兵器は暴れだし、ポルノ的にヒロインを窃視していた隣人を殺しはじめ(スプラッタ)…映画はパニックムービーから宗教的体験!など、お話の諸形式(ハード)をめぐることで展開する。そして最後は大量生産だ(This Is What You Want... This Is What You Get…)。作中で、作品がたどる運命も示される。
同様にインド映画『ロボット』も、ロボット=チッティの誕生から解体までが映画のすべてである点において、チッティは映画そのものである。かつインド映画の構造において、最強の存在である反復された業を体現する主人公、それを演じる大スターラジニカーントが二役同時にやっている点においても、まさにこの映画その人なのである。そしてインド映画なので、笑いと大ピンチが同時に、悦びも悲しみも人生のすべてが描かれる。※3
再びせむし男の話
劇中では松吉の生まれた大正家のお家騒動に巻き込まれた戸籍係が、村人たちの戸籍を持って失踪したことがささやかれている。後で戸籍謄本は地面に埋められているとされ、そこでは戸籍台帳に記された名前が肉体を呼んでいるのだった。写真やビデオネイティブの我々は、物心つく前の自分の姿を、メディアを通じて知っているが、昔の人々はなぜ自分が存在しているのか文字通り知らない。戸籍に誕生を保証されていたが、それが無くなったとすれば、劇中人物たちは「死亡年月日しか持っていない」ことになる。そう、劇は始まるともなく始まって、ただ終わることしかできないのだ。このはじまりの無根拠さを以て、劇は我々にリフレクトしてくる。作品がなぜそのようにあるのか、作中人物たちは作中の原始偶然について理解することができない。
デスノートを拾ったら?
では我々は? 私が生まれたことは、私にはどうしようもなく(被投性)、私には死しか残されていない。私が終わりへと向かうその文脈は、私をある必然性に向けて書き起こす。作品内の人物たちは自らの原始偶然を理解することができないが、作者にとり彼らの存在は、そう書かざるを得なかったという点において必然的なのだ。では私が私のことを描くとすれば? 読んだことないので暴論するけれども、デスノートに書いたことはすべて実現するのだとすれば、では作中に出てくるデスノートとは、まさに私たちが手に取る漫画デスノートではあるまいか。そこには主人公が如何にして死ぬのかが漫画で詳細に描かれているのだから。しかしではなぜ彼は、サラゴサ写本を手に入れたと歓喜しなかったのだろうか。つまり、なぜまず誰かのことを書こうと(つまり裁こうと)思い、なぜ自分のことを書くことに思い至らなかったのかということである(最後に「~で私は死んだ」と書くまで、その私の死の瞬間まで、あらゆる出来事を網羅した延命がノートのページに詳細を書くほどに、逆説的に可能になるではないか!)。あるいは神の裁きと訣別して、どうして彼は自分のことではなく、「すべての人を幸福にするために」(『ストーカー』)デスノートを使わなかったのだろうか。結局、あまりに人間的に、人を裁けば裁かれるということが確認されて閉じるだけなのだろう。フィクションを描くということはかくもかくも困難な作業であり、何も書かないよりは、悲しい話の一つでも書いてみたくなるものなのであろうか…。『晩年』、あるいは『或る阿呆の一生』を。自裁するために?
どうやってフィクションは始まって終わるのか?
終わることしかできない我々は、死という先駆を視界の端に認めつつも、目の前にある空白を満足に享受することはできないのか。『ツインピークス』シリーズにおいて、映画と同タイトルの作中に出てくるローラの日記が書籍化されたノベライズでは、両親と親友ドナに囲まれて、これからの人生に期待し、すべてが自分のために設えられた誕生日会に満足している12歳のローラが書いた日記の描写から始まるのは切ない。この先、彼女は生まれてこなければ、そして存在しなければというニヒリズムの問(※4)を通過するわけだが(松吉、身毒丸では、誕生の繰り延べという形になる)、そもそも街の明暗その人であるローラが殺されて『ツインピークス』は始まり、そしてカーテンの向こうで、舞台の端でローラを見つけて終わるのが映画『ローラ・パーマー最後の七日間(火よ、私と共に歩め)』であった。この先フィクション行き止まり。
「人生ではこの先にはいけない」とフィッツジェラルドに寄せてドゥルーズ&ガタリが語る白光、ホワイトビジテーションとは何か。彼らがローレンツ『攻撃』から読み取ったように、芸術が本質的に動物個体の領土を示す立て看板であるとすれば、それは我々に関わる時制と様相の外に面した「この先行き止まり」を表現していることになる。寺山はこの無根拠を、母子関係を反復することで領土化し、耐えた。それは存在しない世界が「あたかも」存在するかのように、芸術家が最後の嘘をつくことで、創造に失敗する身振りにより、未開の大地の無限性を示す身振りでもある(そうして彼は成功するのだ)。いや、むしろ最もミニマルな反復である差異に従って、本当に失敗を重ねることがベケットに従って求められると言うべきか。限界確定の失敗によって。事故後のgomaの絵画(知覚の外が文字通り我々の知覚にとり観測されないこと)。鏡。波。掟の門。無限大である類推の山。白光。現実。それについて、例えばボルヘスの『鏡と黄金』で語られる2つ目の詩をヒントにすることで、思考の足掛かりを作ることができないだろうか(さっそく、鏡…現実を「それら」ではなく「それ」と言ってみる)。この詩は古典を極めた詩人が至ったある種の前衛であり、内容は表示されないが、戦争の詩であり、破格であるという。そこでは名詞の数と動詞の活用が混乱しているという。複数形の主語が単数形の動詞を持つことは、人々が群的に実現していることを語っているのだろう。単数形の主語に複数形の動詞を持つことで、神のごとき行為者の行為を示すことができる。それに続く最後の詩は、行為と存在の完全なる一致なのだろうか。そしてそこにはなんらか自分らがテキストであることを悟らせることが書かれていたに違いない。ところでこの物語の最後には、詩人は自死し、王は目を潰しては旅にでる。
テキストは折りたたまれて、劇が残り、劇とは…
「社会人がメインの劇団で、メンバーの若年化が進んだためにダンスパートが多数となって」いる。僕は劇の構造に想いを馳せるが、多くの鑑賞者が言葉を失って、狂気だとかアングラだとか鍛えられていない分類を繰り返していることはおいておくとして、ただある種の美しさに驚いていることは正しい。ツェランはどこかで、踊りと踊り手を区別することはできないと述べていた。作品の中の作品が作品だ。だから多分、踊ることは正しい。
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※1:若島正によれば『ロリータ』も日付に矛盾をきたしており、この物語の存在が疑わしいと述べている。悲しい悲しいラストシーンは警察に取り押さえられたハンバートが、ロリータを失った後で、どこかの街を見下ろしている時、穏やかな街の日常音、その交響曲の中にロリータを存在させることができなかったという悔恨を思い出すところで終わる。予め失われたものの喪失の喪失したことへの悔恨?…行ってしまった女たち…そうだ、松吉も自分を指して子供の頃に始めた鬼ごっこの鬼のままであると言う。そして目をつぶって数を数えている時、彼は閉じた瞼の裏側にきらめく黄色い花々を幻視する。そこは「仏様の世界」であり、そこを駆けていく女の影。「あの人だけは追っちゃいけない」とわかっているのに、重たい自意識のこぶのせいで、追いつくことができないのに、追いかけてしまうのだ。
※2:本作では作中作的なアレゴリーがもう一つ存在する。フェイクの傷を描いた悟自身の腕こそ、慎吾の姿なのだと阿部十三氏は指摘する。なんという慧眼! 傷という悪意を持った芸術作品。破壊と悪意は作品の「ために」、作品として、つまり「こんなにうまく描」くために存在する。子はそうして生みだされた作品そのもの。それはすべてに達し、解け、最後に文字通り「アイ」だけが残る(存在しないからこそ、この愛はプラトニックなのである)。景気よく人が死ぬのは作品を彩る供犠である。しずかちゃんの嫉妬と活躍、幽霊の女の子。すべてが作品を彩る。
※3:インド映画のメタ的で多層的な円環構造は別の機会に詳しく論じたい。
※4:否定は意味作用である。つまり世界の性質ではなく出来事の作用なのである。世界はポジティブに充満しており(無限同一性)、我々個が否定性を担っている(価値判断、世界を変化させ創造するクリナメン…超越の貨幣、その手による地ならし。これは、結局は波のようなもので最後には平板化をもたらす。フェティシズムと社会契約のように。しかし出来事とは終わるので世界自体ではなく出来事であり、そしてまた次の出来事が始まり、世界は充溢し続ける…)。