衣褌姿(きぬはかますがた)という、天皇装束
明治維新直後、それまでの服制を見直す意見が出た。「服制改革内勅」といい「袞衣冕服(こんいべんぷく)」「衣冠束帯」等という平安時代以降の伝統的な装束を、神武天皇の時代に戻す、という案だった。
『明治4年9月4日(1871年10月17日)、「服制改革内勅」が出された。この内勅は従来の服装に拘る華族に対するもので、衣冠などの服装は軟弱であり、神武天皇や神功皇后の頃の姿に戻るべきとしている。この「神武・神功の頃の姿」とは「筒袖・細袴」を意味しており、洋服もまた「筒袖・細袴」なので、洋服は日本人本来の姿と相通ずるものであることを示唆している。そして、“神武創業”の精神に立ち返って新しい服制を創造しようと呼びかけている。』
書面には無いが、袞衣冕服、衣冠束帯などは明らかに、隋から齎された装束であり、時の政府はそれを嫌ったのだろう。
その、神武天皇時代の装束は「衣褌姿(きぬはかますがた)」と呼ぶ。現物はもちろん、絵画も残っていない。古墳から出た埴輪の装束を、後の時代の人間が想像したもの。
そのルーツは、北方民族にあると云われる。袞衣冕服、衣冠束帯がどんどん、儀式化して行ったのに対し、衣褌姿は軽快で戦闘服の様である。