すべてはつながりの中で

つながりや想像力を働かせなよっていつも言ってるにもかかわらず、自分ができていなかったことへの自戒を込めて。

自分はどこか、自分が見えたことを人に対して決めつける部分がある。
この人はこういう人間なんだな、とか。そして、それが自分にとって嫌いであったり、ダサいなと思うことであったり、好きじゃないなと思うことであれば、バサっとその人への想いを切ってしまう、つまり無関心になって、自分の世界からは締め出してしまうことをやりがちである。

でも、すべての地球上のすべてのものは、つまり人と人も、集合的無意識、宇宙、高次元(というより、根源)、魂のレイヤーでは繋がっているからこそ、その無関心になって締め出す、という行為は、無限意識の領域では作用を及ぼしていることがあるだろう。

こういった試練を与えてくださっていること、こういった機会を与えてくださっていること、これは自然や宇宙からのギフトと捉えて、自然、宇宙になんとなくの感謝をしていたけれど、そして、その意味づけを自分自身にしていたけれど、それをこの現世で自身に手渡してくれたのはその機会をつないできた人であったり、その人の周りの環境たちである。

自分がそのバトンを受け取ったとき、それがどんな理由であれ、そのバトンをつないできた人たちもエネルギーが満たされるように、なにかお返ししていかなきゃいけない。それは感謝の気持ちとか、言葉とか、その存在を認めることとか、そういったことでも良い。けれど、そこに心からエネルギーを巡らせてなければ、断絶、分断し、そしてよろしくない方向に転がっていくこともあるだろう。縁は連鎖だから。

そう思ったときに、ぼくは、お金について、お金の絶対値じゃなくて、相対的なものなんだから、お金だけは絶対的な値として、やりとりされるのはおかしいと思って否定していたけれど、これって、行為の大きさ、大変さについてだって一緒だ。
自分にとってのある行為と、ある人にとってのある行為、どちらも自身からするとエネルギーを使う行為なのかもしれない。けれど、この行為について、自分は、ある意味絶対値、はたまた自分の価値基準の中でのみ推し量っていたなぁということに反省した。

さて、受け取ったバトンを持って、どこまで走るのが自分の役割なのか。そしてそのバトンをどのように次に渡すのか。これまでバトンをつないできた人たちにどう想いをめぐらすのか。そこまでが、バトンを受け取ったものの責任だなということを心に刻もう。

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