伝わるのではなく、体験が起こる
最近、人に伝えたいと思うことが多々あって、そしてそんな機会も少しずつ頂くようになって、伝えることを目的に言葉にして、物語にすることが増えてきた。
伝えようと必死になっていると、往々にして説明文っぽく、あれやこれやを言葉にして、自らの理解に従わせようと理論をこねくりまわして、異論が起きないように、完膚なきまでに逃げ道をなくそうとしていることが多い。
けど、そもそも自分が伝えたいことが、言葉で「伝わる」と思っていることが驕りであることに自覚的になりたい。
そもそも自分は、相手が伝えたいことをちゃんと受け取っているのか?
という問いでいうと、「受け取ってる。」と思いたいし、そう言いたいところだけど、実際のところ、あー伝わった!みたいなことが自身の中で起きているわけではない。
相手の話していること、調子、抑揚等が聴覚から入り、全身の挙動等が視覚から入り、それが脳に届いて、そして精神ではなにが起きているかというと、それをもとに自身の中で、自分の経験や理解に照らし合わせて自分の文脈に照らし合わせて、自分と会話している。そして、その中で、あ〜という納得の体験や、自身の現状に当てはめて共感する体験や、いや、なんか違うという否定する体験等が起きているだけであって、厳密には「伝わって」はない。
けれど、だからこそ、自分のことのように受け取り、結果共鳴し、共感し、「伝わった」「受け取った」という認知が生まれると思う。
そもそも、日本は、この「伝えるのではなく、体験する」ということをうまく使える民族のように思える。それは共通のコンテクストや、一定水準以上の教育を受けているからこそ、「体験する」ことが自身が伝えたいことに近いんじゃないか?という信頼のもと、委ねられるからだと思う。
その真骨頂が、17文字で、その映像とその映像を見たときの自身の心の体験を、文字を見た人に伝えるという俳句なのだと思う。
から、どんな「体験」がおきてほしいか?その願いから、
そして聞き手・読み手の「体験」を信じ、言いたいことをガツッと削って余白を作り、人に伝えたいなと思うことを発信していきたいと思う。
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