人間性と動物性

最近ぼんやりとある一つの確証めいた真理を捉えたと思っている。
これに明確な根拠があるわけでもなく、まだぼくの考えの域は超えていないけれど、結構明確な指針なのではないか?と感じている。

それは、
「人間は人間性を高めていくことが唯一の至上命題である」
ということだ。
使命とか、生きる目的とか、才能とか色々なことが言われたりするけれども、どんなかたちであっても、それぞれの「生き方」を通じて、人間性を高めていくことが、人間が求められていることであり、唯一の行動指針であり力学なのではないか?と感じている。

大事なのは、「人」ではなく、「人間」だ。
つまり、「じんかん」、つながりの中で営みを行うことを指している。

六道において、私達は、「修羅道」または「人間道」にいる。(もしかしたら、天道の中の一番下の欲界部分にいるひともいるかもしれない)
その下は、「畜生道」、「餓鬼道」、「地獄道」だ。

「人間性」を高めるというのは、修羅道や畜生道に進む選択をするという「動物性」の選択をするのではなく、「人間が人間たる所以」を意識しながら、「天道」に向かった選択をしていくことだと考えている。

天道の中の中位に存在する色界では、淫欲と食欲という欲から離れるが、物質的条件 = 肉体の束縛からは脱却されていない世界で、生きている間に到達できるのは、この天道の中の色界までだと思う。
この色界では、光明を食していると言われるが、ようは、光明によって互いにやりとりしているとも捉えられる。

光明の反対は、無明で、無明とは、苦の根源であり、人がもつ醜く汚いもの = 小我 のことを指す。
岡潔さんの春宵十話や、小林秀雄さんとの対話の人間の建設で、彼は、
ここ最近の自由主義、個人主義は、個性・自我は小我であり無明であると勘違いしているのが危険だということをおっしゃっていたが、本来の個性・自我は、小我・無明の世界ではなく、無我・無常である真我にあるという考えである。
無明や小我を刺激し、表現していくと、どんどん人間は動物的につまり、畜生道に戻っていくと思われる。しかも、たちが悪いのは、本能と野性だけで存在すればそれはまた「無我」であり美しいのに、人はそことは別に前頭葉の働きがあって、小我があるからこそ、欲という歯止めの効かない強大な力をもってしまっている。
これがありとあらゆる自浄作用ブレーキを壊してしまうのである。

人間は、畜生道に近い修羅道から天道の色界までを行き来することができるのだから、人間性を高めるというのは、天道の色界を目指していくこと、つまり無明ではなく、光明を元に生きていくことだと思う。光明とは智慧であり慈悲であり、おそらく真我であり、無常であり、無我である。

現代は、ビジネスというなの戦いに常に人を置いて、欲を掻き立てる、解放する方向に力学が向いてしまっている。
テクノロジーの進化も結局はそっちの方向に使われてしまっている。
これが「市場原理」であり、見方を変えれば「修羅道」である。
豊かでハイカロリーな食事にあふれてしまった結果、現代人の腹は出て、シルエットがまるで餓鬼道にいる餓鬼の絵そっくりな人ばかりになってしまったし、露出度の高い服、下品な振る舞い、SNS等での承認欲求、富・名声、真善美を評価できないからこそすぐに実社会に結びつけてしまうような短絡的な思考すべてが、畜生に向かっていっている、つまり小我である自我を持った上での本能・野性の増長にほかならない。

この世に、「人間」として生まれたからこそ、生まれ持った人間としての罪を償い、この宇宙に感謝し、貢献していくことをしていきたいなと自分は思う。

人間性とはなにか?はまだまだぼんやりとしか答えることができないのだけど、無明を前頭葉の働きによって抑制し、小我ではなく、意識的に前頭葉と本能・野性を包括した上での真我を発揮できるように日々積み重ねることなのだと思う。

本日も読んでくださりありがとうございました。感謝します。

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