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23,調整員の視察その1

オルドスは鉄道もなければ空港もない。通信事情もよくない。いわば陸の孤島だ。ボランティア派遣元のJICA北京事務所との連絡は専ら手紙。

緊急な連絡をする場合、まず北京からは電報が届く。僕は電報を受け取ってすぐ自転車で町の郵便局へ。長距離電話をかけるための手続きを済ませて、後はひたすら待つ。だいたい10人以上待っている。運がよければ30分くらいで呼び出され、3つある電話ボックスの1つに入る。奥にいるオペレーターが電話をつなげてくれる仕組みになっている。戦前の日本映画に出てくるような光景。運が悪ければ、2、3時間待つことになる。挙句の果てにボックスに入っても「今は回線の状態が悪いので、明日また来てくれ」と言われたこともあった。

そのほか、中国に長期滞在をする場合は必ず必要になる「外国人居留証」の発行は2ヶ月も遅れたし、日本から生活費を送金してもらうための外貨用の銀行口座開設には半年以上もかかった。当時、外国人は中国人が使う人民元ではなく、兌換券という通貨を使うようになっていたのだが、オルドスでは「こんなお札は見たことがない」と受け取ってくれない。こんな状態だったので、その年の4月に北京事務所のボランティア調整員がボクの活動を見に来ることになった。

調整員が視察に来ると聞いて、ボクはなぜか不安になった。確かにここでの生活にも慣れて、活動も楽しくやっていた。でも、ほかのボランティアに比べてボクの活動はどうなのか、それまでは全く気にすることはなかった。いわば「井の中の蛙」状態だった。しかし北京からボランティア担当の調整員が来る。その人は当然、いろんなところでボランティアの活動を見ている。自分の活動がどう評価されるか気になっていたのだ。

それに、今まで生徒との関係はよかったし、先生との関係もよくなりつつあった。しかし学校の指導者たちとの関係は、あまりよくなかった。指導者たちは相変わらず日本語には無関心なようで、教科書はいつまでたっても来ない。本当は特に用事がなくても、こっちから進んで指導者たちと接していかなければならないのに、いろいろ働きかけても無駄なような気がしていた。自分のことは自分でやる、といった姿勢で、指導者に助言や許可を得ることなく進めてきた。一方では夜、遅く帰ったり学校以外の人と付き合ったりしていると「君の安全のために・・・。」といろいろ干渉してくる。それがまた、うっとうしかった。だから宴会などを除いて、指導者たちとの交流はほとんどなかった。だから調整員の視察の件で学校側がうまく対応してくれるか心配になっていた。

当日はまず授業を見学してもらうことになった。いつもはボクと生徒だけの空間に、その日は調整員のほかに校長や地方政府の関係者もいるという中で生徒はもちろんボクまで非常に緊張した状態だった。全体のコーラスはいいが、個人に当てるときは心配だ。初めての授業のときのように、生徒が突っ立ったままで何も言えなくなったら、どうフォローしていいかわからない。

しかしこの半年の間に彼らは確実に成長していた。1人でもしっかりとした発音で読むし、会話練習のときもこっちの思った以上にアドリブなどを交えながら、やってのけた。おかげでボクも調子が出てきて、メリハリのある授業になった。

会議やセレモニーも順調に行って、オルドス式の宴会も大いに盛り上がった。ここまではよかったが・・・。(続く)


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