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24,調整員の視察その2

(前回からの続き)

しかし宴会の後、調整員が泊まっていたオルドスホテルの部屋に関係者が集まったとき、思いもよらぬ事態となった。

同行していた内モンゴル自治区政府の日本担当の人が「この学校じゃ、条件が悪いので生活が大変でしょう。実は自治区の首府フフホト市にも日本語教師が必要な学校がある。そこはオルドスより都会だし、生活面でもトイレ、シャワーつきの部屋はもちろんいろいろ考えてくれている。まだ半年を過ぎたところだし、そっちに移ってもいいんだよ。」と言ってきた。

まさに寝耳に水である。その時校長はむっとしながら「私の学校は、それほどお金に余裕がない。もし今の生活条件が我慢できないなら、仕方ない。他のところに行くしかないな」と言い放った。

今までボクは教科書がいつまで経っても来ない件やテストの実施の件など業務の面では何回も要求したし時には文句も言った。しかし生活上の不満は言ったことがなかった。この突然の提案にいとも簡単に開き直ってしまった校長の態度が悲しかった。

その後、校長は発言を軌道修正して、やはり当校では日本語など外国語の教育が必要なんだ、とかボクの部屋はあくまでも臨時のものですぐに建設に取り掛かる、だからこれからも君にいてほしい、と言った。しかしボクの心は晴れない。彼の言い分をよく聞いてみると、今学期から社会人向け日本語コースを始めたので、いまさらやめる訳にはいかない。だから残ってほしいとのこと。生徒のほうはどうでもいいといった感じだ。こんな指導者のもとで不満を抱えながら活動を続けるより、いっそう新天地で一からやり直したほうがいいのかもしれない。

結局、どうするかはボクの判断に委ねられたがすぐに結論を出すことができず、「一晩考えてみる」ことにした。学校まで夜道を校長といっしょに自転車に乗って帰ったが、一言も言葉は交わさなかった。ただ校舎のまえで別れるとき、「じゃ、また明日」とさびしそうに手を振っていた校長の姿が、印象的だった。

その夜はいろいろなことが頭をよぎって、結局寝られなかった。教室で日本語を一生懸命勉強している生徒の顔、冬休みに部屋に招いてくれた先生方、校長のさびしそうな姿。一方、フフホトでの全く新しい快適な活動も想像できた。

いつの間にか、部屋の外から生徒たちのささやき声が聞こえてきた。まもなく朝の自習時間。モンゴル語で何を言っているのかわからないが、とにかくボクを起こさないようにとの配慮が伺える。教室があいたのか、みんないっせいに教室に入り込む音。

そして静かに自習、自習が終わるとグランドに出てクラスごとに隊を組んでランニングが始まる。ボクの部屋の窓からはその様子がよく見える。51組が走っている。53組もほかの生徒たちも風の強い中、砂を浴びながら懸命に走っている。

「やはり、ここに留まろう」

結論は始めから決まっていたのかもしれない。どうしたって一度教え始めた生徒や先生たちを見捨てることはできない。たとえ指導者が日本語を重視していなくても別に彼らを相手に日本語を教えるわけではない。教える対象がやる気になっているのだから、それだけでやりがいはある。それに学校以外でもここオルドスの人々とのつながりができてきたし、この地を第二のふるさとと呼べる環境ができてきていた。

今まで消極的でうまくいっていなかったところもある。特に指導者たちとの交流には消極的になっていた。一から出直したほうが、もっとスムーズにいくかもしれない。でもせっかくそれまで少しずつ積み上げてきたものを途中で捨て去ることはできない。今までの人生、そんなことばかり繰り返してきたような気がする。

調整員の視察で学校側の本音や無理解は改めて感じたが、それはこちらのアピール不足の裏返し。それまで以上に何があってもここで最後までやり抜こうという決意を持つきっかけになった。実際は何も変わらない道を選んだが、調整員の視察がひとつの大きな転機になったことだけは確かだった。

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