死を畏れる少年たちへのレクイエム(1)
”死” がコワイ!
死を畏れる少年たちがそばいる。
病気なんじゃない!そんなこと考えないでしょう普通は!と周りの大人からは聞こえてくる。そんな彼らへの違和感はなく、むしろ親近感、そして野球だったら大リーグへ行ける素質でむしろ有望だと思う。
そんな死を畏れる少年たちに
「死なんてないだよ!コートを脱ぐようなものさぁ!はぁはぁはぁ!」と言い放ちたい、、、。だがトマレ!!!その確信は自分にあるのか?自分の言葉なのか?などなど自問自答がはじまる。
そんなある日、沖縄の知人のSNSの投稿が目に止まり、何度かスルーしたもののそこで紹介されていた本を図書館から借りて手にすることにした。それらを手にしながらふと無鉄砲で落ち着きがなく怪我の絶えない幼少期の頃のことを思い出した。ブロック塀から落ちたり、崖から滑り落ちたりした時に「死んじゃわない!?死んじゃわない!?死んじゃわない!?」と周囲に連呼していた過去の自分がいた。Ooooh! これはあのSNSのインフルエンサー達がよく言っているインナーチャイルドじゃないのかぁ。そう、私も死を畏れる少年だったのかもしれないと思わず笑ってしまう。それ以来、今日に至るまで2024コンボケーションのチタナンダジの講話で一際は印象に残った「この困難な時代にあって神秘主義者たれ(Be a Mystic in the Heart of the World)」を邁進中なわけであるが。古代インドの偉大なる不二一元論の賢者アディ・シャンカリチャリアをはじめ、現代ヨギのパラマハンサ・ヨガナンダジは「人間の永遠の探究」講和三十三「目に見えない自分」の著書の中で「人は死によって消えてしまうような存在ではない」ことを詳しく明かしてくれている。
幼少期の私は巣鴨でパン製造業を営む父の兄の大家族と工場で働く従業員さん達の中で育った。なかでも特に可愛がってくれたおじさんがいた。そのパン屋の長男さんは若くして不慮の死を遂げた。その時が初めて身近な死に接する機会だった。もう会えない、もう居ない、でも自分の心にはいつまで経ってもそのおじさんの存在が消えることはなかったことを幼いながらもよく覚えている。あの可愛がってくれたおじさんはどこへ行ってしまったのか?そう、いま思えばただの思い出などではなく、肉体はなくても幽体として依然として存在している証だったのだ。
さて、手にとってみた「10歳からの生きる力をさがす旅」シリーズはなるほど著者の来歴を感じさせる描きっぷりで、タイトルもそれぞれピッタリのように思えた。まずはXmasも近いことだしセンダイジジババからプレゼントすることにしよう、死を畏れる少年たちへ!
そうだ、今日はこれから糠漬けたくわんを仕込まなくてはいけない。
To be continued.