ナボ マヒコ(Nabo magico)8
夜、8時5分前、僕はマリエとの約束通りカフェテリア『マジョルキーナ』の前にいた。マリエは、まだ来ていなかった。店の中から焼きたてのパンやケーキの甘い香りが流れてくる。僕は、たまらず店の中に入ると、パイ生地でカスタードクリームを包み込んだ『ナポリターナ』という名前のパンをひとつとエスプレッソを注文した。
20分ほど遅れてマリエが店の前に現れたので、僕は中から大声で「マリエ!」と呼んだ。その声に気がついて彼女は振り向いた。そして店に入って来るなり
「恥ずかしいじゃないの、バカ!」
と、大声で呼んだことをなじるので、僕も
「20分も遅刻しといて何だよ!」
と、言い返したが、雲行きが怪しくなりそうだったので、すぐに「ごめん、ごめん。」
と謝り彼女の機嫌を取った。
「おなか空いてる? 今夜は何を食べようか? スペイン料理、それとも和食の方がいいかな?」
そう、僕が出来る限りの優しい声で尋ねると
「あんまり食欲ないの。何か軽くつまむだけでいい。」
と、彼女が言うので、僕達はマヨール広場に面した、クチジェロスという通りにある焼きマッシュルームの店に行くことにした。
その店は、日本ではお目にかかれないような大きなマッシュルームに細くきざんだチョリソと呼ばれるスペイン独特のソーセージと、レモン汁をかけて焼いたものしかおいてなかったが、それがことのほかワインに良く合うとの評判で、いつ行っても、 超のつく満員である。そして、この日もやはり大勢の客達で賑わっていた。
僕たちは、お客を押し分けるようにしてカウンターのわきを通り過ぎ、奥にいくつか置かれている四人掛けの年季の入った木製のテーブルのうちのひとつに何とか落ち着くことが出来た。
座るとすぐにボーイが注文を取りに来たので僕達はサングリア (フルーツの入った甘い赤ワイン)と名物のマッシュルームを一皿頼んだ。あたりは人の笑い声や流しのアコーデオン弾きが奏でるメロデイーやらが混じり合ってかなり騒がしく、そして煙草の煙で霞がかかったようになっていた。
しばらくして、ずんぐりとした素焼きの茶色い陶器の水さしに入ったサングリアと爪楊枝が刺されて一見針ネズミのようになったマッシュルームの皿、そして、小さく切り分けられたパンが四切れほど、別の皿に盛られて運ばれて来た。
僕とマリエは、マッシュルームに刺さっている2本の楊枝を注意深くつまみマッシュルームの中に溜まった美味しいスープをこぼさないようにして、口の中に放り込んだ。
ほのかなニンニクの香りとレモンの酸味が口の中に広がっていく。
「うまいね!」と彼女の方を見ると、熱い汁で口の中を火傷してしまったのか、苦しそうな顔でテーブルのグラスに慌てて手を伸ばし、中のサングリアをグイっと飲み干した。
「マリエ、大丈夫?」
「ええ、でも、ちょっと火傷しちゃったみたい。」
気落ちしている様子の彼女のために、そのあと僕はいつものようにつまらないダジャレを連発して何とか雰囲気を盛り上げようと努力した。彼女はよく笑ってくれた。僕はますます調子にのってダジャレを連発した。
小一時間ほどしてネタも尽きてしまったのでもっと静かな所へ移動しないかと彼女を誘ったが、彼女が明日早朝から仕事があるので、もう帰りたいと言うので仕方なく彼女のアパートまで送って行くことにしたのだった。
タクシーに乗り込んでからマリエのアパートに着くまで僕達二人は、さっきとはうって変わって、ほとんど口を開くことはなかった。
僕は久しぶりの彼女とのセックスのことばかり考えていたし、彼女も僕と同じことを考えているものと思っていた。
アパートの入り口の直ぐ前までタクシーを横付けし、少し多目に運転手にチップをやった。そして入り口のドアの前で、僕は彼女が鍵を開けてくれるのを待っていた。
寒い。今夜は今年一番の冷え込みかもしれないな。そんなことをぼんやり考えていると、彼女が急に僕に向かって言い放った。
「私、今度日本に帰るんだ。帰ってお見合いするの!」
つづく