南北朝異聞
わたくし、大和の国、石上神宮の池に住んでおります、馬魚と申します。国が南北に別れての激しい戦が続いていたときの事でございます。後醍醐天皇陛下が、都を離れ、お付きのものと、ここを訪れになられました。従者の一人に、遠く祖先にユダヤ人を持つと、かねてから噂の秦氏の遠縁の者があり、この宮の成り立ち、御神体の七支刀と彼の地の燭台メノーラーとの遠からぬ縁等、帝へあれこれと語っておりましたが、帝の方は、境内の隅にある、池を見つけると、さっさとお一人で畔まで向かっていかれました。
帝は、しばらく水面を、見つめていたかと思うとふいに、従者に向き直り「魚が游いでおる」とおっしゃり、続いて、なんと言う名の魚であろう」とお尋ねになられるのでした。
慌てた従者は、神主を呼び、尋ねましたが、要領を得ず、「誠に持って申し訳ございませぬが、魚の名は、わからないとのことでございます」と平伏すると、帝は
「これも何かの縁」と、すっくとお立ちになり続けて、こう仰られました。
「お前の、言う、彼の地のヤファエ神なるものは、天地を六日で、創りたまい、七日目に休まれたそうな。都を発ちて、早六日、七日目の今日は、我も、彼の地の神にならいて休むとしよう。ところで、その安息日は、彼の地ではなんと呼び習わすのか。」
「サバット」でございます。
「ならば、この魚の名もサバットとしよう」
それから、ずいぶんと、時は流れ、ある日のこと、境内に黒服の大柄な男が町人風の小柄な男と連れだって現れたのでございます。
黒服の男は、彫りの深い顔立ちで、頭はカッパのようでした。 二人は、池のほとりにきますと立て掛けられた立札をみて、顔を見合わせました。
「これは、一体なんと書かれておるのだろう」
「これにある魚は、サバなり、とあります。」
「何、サバとな、それは如何なるものか」
連れの小男は、懐から小さな帳面を取り出すや
「南蛮語では、カバージャ(caballa)」でございます」
海の魚がこんなところにいるはずがない、責任者を呼んでこいということになり、そのあと神主とああでもないこうでもないと話しますが、異国人との会話には、不馴れな神主は、サバはだめで、カバージャ(caballa)に書き直せと言う意味と取り違え、その様にしました。
また月日は流れ、あのご維新のあと新政府の役人が、境内に現れたのです。そして、立て札を見るなり、こんな山中の池に鯖はまずいと小さく唸り、考え込んでしまいました。
しかし、そこは役人、やんごとなきお方へのそんたくでは、右に出るものは、ございません。これは、カバージョ(caballo)の、間違いに違いない。カバージョは、南蛮語で、馬と言う意味である。これでも、魚の名前には、かなり無理があるが、優秀な役人は、後醍醐天皇の馬が、息を引き取る寸前、精霊となりて、池の魚にのりうつり、帝の安全と国の繁栄を祈願した、との忠君愛国の物語りに仕立てたのでございます。
私どもにとっては、人からどう呼ばれようが一向に構いません。元来、名前と言うものがないのですから。今日もまた水面の上には、いつもどおりの風が吹くばかりでございます。