こより日和
アルカラ通りを足早に太陽門広場に向かって進んで行く。
約束の時間には十分に間に合うように家を出たマリアであったが、街道沿いの枯れた木々が乾いた冬の空に印刷されたような空気の中愛しいあのお方に、一刻も早くお会い出来ればと、自身の全ての力を、ただ一筋に足を早めることに集中する自分が愛しくもあり、歯痒くもあった。
それは、踏み潰された、マロニエの木の実のように、ただ滑稽な朽ち果てる未来を甘んじて受け入れることを頑なに拒否するすべを探す為にこの足取りを前に進めているからであろうか...
レテイーロ公園前からシベレス広場へ抜ける辺りで、急に足元に楔(くさび)を打たれたような違和感を感じて、マリアは、ちょっと前つのめりなって、立ち止まった。
ああ、下駄の鼻緒が ...
いつもなら、懐の茶巾には、古紐を備えてあるべきではあったが、今のマリアには、不思議と、その後悔の念は微塵もない。
白い肌に無様に添えられた自分の足元の下駄の縮れた鼻緒をただじっと見つめる。
Señorita (セニョリータ)お嬢さん、如何なされました?
見上げると、黒い毛糸帽子の男がマスク越にも精一杯の笑顔でマリアを見つめている。
下駄の鼻緒が...
マリアの言葉を聞き終えるまでもなく、若者は、自分の着ていたTシャツを事も無げに割くと器用に紐にしてマリアの下駄を修理した。
出すぎたことをしてしまいました。
頭をかきながら一礼するその若者が無意識に耳に手をやったその時、彼の顔を覆っていたマスクの紐が切れた。
プツッっと運命の音が、鳴った。
少なくとも、マリアには間違いなく聞こえた。
あなた様のマスクの紐を、直せる人は幾らでもいることでしょう。でも、この、コロナ禍の世の中では、マスク無しには、貴方のような優しいお方は一時も過ごせるはずはございません。どうかわたくしにそのマスクを。
マリアは、そう言うとお気に入りの整髪師にさえ、滅多に触れさせない前髪を数本抜き取り指先でくるりとよって自前の糸を作ると、半ば強引に若者の顔からマスクを剥ぎ取って切れた糸の代わりに、自分の髪で作った糸をマスクの穴に通し、修理を終えたマスクを、若者の顔に被せた。
空色が薄く透けたマスクの横側にはマロニエの実のような、ちょっと寂しい焦茶色の糸が若者の耳に頼りげなさそうに引っ掛かっているのが見えた。
マリアは、目の前に立つ若者を今一度見つめた。
彼の背後に広がる、プエルタ デル ソル(太陽門)へ延びる大通りを望みながら、自分がさっきまで急いで来た道がここでこの道に繋がったと確信した。そして、きっと、これから、新しい自分が歩んでいくだろうこの道のことを思うのだった。