ナボ マヒコ (Nabo magico) 3
近くで更に彼を見てみると一見若そうに見えたがその頭髪にはかなり白いものが混じっていることに気が付いた。
僕は彼の隣で暫く黙ってビールを飲んだ。 かなり不自然な空気が二人の間に漂っているのは十分わかっていたが、どうしても僕の方からその男に話しかけようという気にはなれなくて、僕はさらにビールをおかわりした。 しかし、小瓶とはいえ五本目のビールを飲み終えた頃には、酔いも手伝ってか自分でも驚くほど自然に彼に話しかけていたのだった。
「寒いですねえ、今夜は。」
僕が話しかけてくるのをじっと待っていた様子の男は、嬉しそうに顔を上げて僕を見ると早口でいっきに喋りだした。
「いや本当に今夜は冷えますね。おひとりの様ですが、実はわたしもひとりで退屈してたんです。よかったら一緒に飲んでくれませんか?」
そう言って僕のグラスに自分のビールを注ぐと、僕が何も言わないうちから自分の事について話しはじめた。
「いやあ、実はわたしマドリッドに来てからもう五年位にはなるんですけどね。日本食レストランなんかに入るの、これが初めてなんですよ。言っちゃ何ですがね、こんな所に集まって来る日本人はみんな馬鹿だと。いや失礼、別にあなたのことを言ってるわけじゃあないんです。ただ、自分で勝手にそう思い込んでいただけなんです、わたしが。これでも日本にいたときは大学で教えてましてね。大学の名前ですか? そんなこと、どうでもいいじゃないですか。まあ、田舎の三流私大ですよ。そこでスペイン語を教えてましてね。専門は中世の文学なんですが、そんなものは大学じゃあんまり教えないんですよ。そこで、人間関係のもつれとか色々とありましてね。なんか疲れちゃいまして。それに、もっと自分の専門の方を自由に研究したいと思いまして。 ああ、あなたは疑ってますね、わたしのことを。確かにこの格好じゃとても大学教授には見えませんわな。でもね、そこがわたしの狙いなんですよ。ほらっ、人間って奴はすぐ人を外見で判断したがるでしょう? でもね、一番大切なのは中味なんですよ。いやね、わたし自身もそれに気がついたのはつい最近のことなんですがね。ところであなた、お若く見えますが、こちらで何をなさってるんですか?」
学生です、と僕は答え男のグラスにビールを注いでやったが彼に声をかけてしまったことを既に後悔しはじめていた。
「そうですか、学生さんでしたか。で、何を勉強されてるんですか?」
「僕もスペイン文学を専攻してるんです。奇遇ですね...」
僕の言葉に、そうですか、そうですかと嬉しそうに何度もうなずきながら更に「お好きですかスペイン文学?」と尋ねてくるので僕は少し皮肉っぽく中世文学は嫌いです、と言ってやった。
男はその言葉に別段気を悪くした風でもなく「それは残念。」とだけ言うとビールをもう一本注文した。
「ところで今晩これからちょっと場所を変えて飲み直しませんか? もちろんわたしがおごらせてもらいますよ。面白い話があるんですがね。あなたにとっても悪い話じゃないと思うんですよ。ほらっ、また疑ってらっしゃる! 大丈夫、何も起こりゃしません。あなたは、ただ黙ってわたしの話を聞いてくれればいいんですから。ほらっ、この、店を出て少し左の方へ行った所にSueño(夢)って名前のバルがあるでしょ? そこなら、ここからすぐだし、あなたも安心でしょう。さあ、これも何かの縁だと思って!」
カウンター越しにマスターの方へ目をやると男に気付かれないようにしかめっ面を作り首を横に振って僕に男の誘いに乗らないよう合図しているのが見えた。
僕もはじめからそのつもりだったのだが、男がさっさと僕の分まで勘定を済ましてしまいドアの前で何度も手招きするので、どうせ気晴らしに酒を飲みに来たんだから、ちょっと暇潰しに付き合ってやるか、と、ほんの軽い気持ちで男の後について店を出ることに決めた。