悪い子
スペイン語で悪い子のことをchico malo(チコ マロ)と呼び習わすらしい。麻呂は、悪い子じゃ。
そなたが、あまりに麗しいから、麻呂は、そなたを、無理矢理、麻呂の元に置いておきたくなったのじゃ。
そなたも心得ておろう。女性の容姿の良さというものは秘書等の補助的な役割の時には、非常に高く評価されるものじゃが、リーダーシップを執る管理職になったとたん、「適切ではない」「決断力に欠けるに違いない」等と言われ実力が目減りして見られるのじゃ。
その上、実力ではない何かが働いているのではないかと、何らかの不正の手段までも想定されやすいのじゃ。
このことは、心理学用語では、ステレオタイプ スレット(固定観念の脅威)と呼ばれておるらしい。
麻呂は、めんどくさいことが大嫌いじゃ。 麻呂だけではないぞ。人間の脳は、相手を属性で判断せざるを得ないぐらい情報処理が不得手な思ったよりだめなものなのじゃ。
要するに、頭を働かせたくないから、こいつは、こういう外見だからこうに違いない、と無意識の偏見(バイアス)を持って全てにおいて「ラベル」を貼ることが大好物なのじゃ。
そなたも、麻呂をみてさぞ嫌悪の情が湧いておることであろうな。
されど、何を悪と見なすかは、集団の中で生き抜くための「身分証明書」のようなものじゃ。人というものは、何かを悪と名指すことで、その集団に属するものは、いかなる者であるべきかということを周りに示し共有するため、そして、我らと我ら以外を繰り返しどんな者であるかを再定義するという目的があるのじゃ。
理屈ではないのは、そなたが十分わかっておろう。あれこれ考え計算した結果、これは悪だ、などと言うやつは、そうそうおらんからな。皆、「こいつは、これは、許せぬ!」
といきなり感情のスイッチが入るものじゃ。その感情を偽装しにくいが故に身分証明書となりえるのじゃ。
そなたに、悪の権化のように思われるのは、つらい。しかし、それゆえ、麻呂は、そなたがどんな人間であるかという証明に一役かっておるのじゃ。
ああ、そんな目で麻呂を見たところで麻呂のそなたへの想いは変わらないぞよ。 そう、麻呂は、チコ マロ、悪い子じゃ。