練習・考え事 2022_06_11
こんばんは。久しぶりに自分以外の読み手が存在しうるところへ文章を置いてみようという気になったので、キーを打っています。
音楽を始めてから絵を描かなくなって、ほとんど描けなくなったように、音楽をやらなくなってからおそらく弾けなくなったように、読まれる文章を書かないと、そのうちすっかり書けなくなるような気がするので、反応の鈍いキーをぐいぐいと押し込んでいる。(特にnが反応しづらく、たびたび不快な思いをしている。)
とはいえ、いったい何を書いたらいいのか・・・
はぁ・・・めげそうになってくる。
・・・思いつくのはこのこと。
数日前にあった出来事
「みんな悩みを抱えている、そうだよね」と、ある人に言われたときに「私はみんなではないからわからない」と返したら、「それは想像力が足りない。絶対そう(みんな悩みを抱えている)」と言われた。
このことについて考えを巡らせてみよう。
どう答えるべきだったのか?
穏便に会話を進めるならば、私は「そうだよ」と返すべきだった。
さて、「そうだよ」と私自身の考えに背いて質問者に同意することは、良いことなのだろうか。
→良いことだ
①質問者にとって良いことだ。なぜなら、その人が同意されたいであろうことは、付加疑問文の形で問われていることから推測できるから。
②私にとって良いことだ。同意していば、「想像力が足りない」と言われることがないから。
→悪いことだ
❶私にとって悪いことだ。ある人に対して嘘をつくことになるから悪いことだ。
❷質問者にとって悪いことだ。(その人自身は認識していなくとも)嘘をつかれたことになるから、悪いことだ。
さてと。良し悪しの問題は上記をもとに考えれば、ひとまず考えられそうなので置いておくとして・・・
「みんなが悩みを抱えている」と、どうしてわかるのか
私の関心は、そもそも「みんな悩みを抱えている」(ここから先は、「みんな悩みがある」と言い換えて考える。)ということについて、どうしたら「絶対そうだ」と言えるだけの確信を持つことができるのだろうか?ということだ。
そんなことってわかるのかしら?
私は、「みんな悩みがある」をそれが絶対だと確信を持って主張することはできないのだが、それはこういうわけである。
「みんな」という言葉が示す意味を、全ての人だと捉えよう。※1
ある人の悩みの有無を確認する手段は、その人自身に「あなたは悩みがありますか」訊くことだけである。※2
「あなたは悩みがありますか」という質問には「ある」「ない」の2つの答えがありうる。
しかし、そもそもそんな質問を全ての人にすることはほとんど不可能であるし、訊けたところで正直に答えてくれるかもわからない。
もし、全ての人に「あなたは悩みがありますか」と質問できたうえに、全ての人が正直に「ある」と回答した場合は、確かに「みんな悩みがある」と言えるだろうけれど。
ただ、その理由として想像力を持ち出す必要性はないんじゃないか。「わからない」と答えた私に返される言葉は、「それは想像力が足りない。」ではなくて、「実際にみんなに訊いたから絶対にそうだ」となるだろう。
※1「みんな」を人間以外も含んで全ての存在を示していると捉えることだってできるけど、悩みを抱えられる存在を想定するうえで、ひとまず人間のみんなだということにしよう。
※2ある人が、他人から見て、悩みを抱えているように見えることと、実際に悩みを抱えていることは別の事柄だろう。
想像力に訴える
さて、私は上記のように考えたので、「私はみんなではないからわからない」と答えたのだが※3、それに対して、質問者は「それは想像力が足りない。」という返答だった。
つまり、想像力を働かすことで「みんな悩みがある」ということを主張するに足る確信を得ることができるようなのだ。
私自身に悩みがある場合のみを考える。※4
私は悩みがある、また、私の周囲もみんな悩みがある・・・①
だから、みんな悩みがある。・・・②
①から②は導けるのだろうか。
・導ける
①で「みんな悩みがある」と述べられていて、②でも「みんな悩みがあ
る」と述べられている。つまり、②は①で述べたことを再度述べているだけなのだから、①から②は導ける。
・導けない
①で述べられているのは「自分とその周囲のみんな」に悩みがあるということだ。一方、②で述べられている「みんな」は、「自分とその周囲の」のような範囲を限定する言葉がついていない「みんな」である。だから、①から②は導けない。私と私の周囲のみんなに悩みがあったとしても、私と私の周囲のみんなと全く違ったあり方をしていて、悩みが全くない人が存在する可能性はある。
質問者も、私も、①と②の「みんな」が違うものを指していて、①から②が導けないことは認める。質問者が導けないことを認めることがわかるのは、①から②が論理だけで導けるのならば、質問者が想像力に言及する必要がないからだ。
質問者の意図するところは、①から②へは飛躍が必要だが、想像力を働かせることがその飛躍を可能にするということだろう。
なるほどなぁ。
※3この返しかたは3つの理由で良くない。ひとつ。すべての人に悩みの有無を質問できた場合も、「私はみんなではない」からだ。ふたつ。質問者も「私はみんなではない」ことは当然わかっているからだ。みっつ。それゆえ質問者への心証が悪い。
※4私自身に悩みがない場合を考える必要はない。なぜなら、もしそうであるのなら、「みんな悩みを抱えている、そうだよね」に対して、「そうではない、なぜなら私は悩みを抱えていない」と返したはずだ。
想像力がもう少し先まで行ったなら…
質問者の、「十分に想像力を働かせば、私と私の周囲もみんな悩みがあることから、みんな悩みがあることがわかる」という主張は理解できる。
けれど、やっぱり私は同意できないのだ。
もっと想像力を働かせば、悩みが全くない人が存在することも想像できるように思うのだけれど、どうだろう。
その人は、私と私の周囲のみんなと全く違ったあり方をしていて(想像も及ばないような一生を送っているのかも)悩みがない。いや、もしかしたら、私の周囲の人が、もしかしたらそうなのかもしれない。
おしまい
私は「絶対にみんな悩みを抱えている」とは思わないけれど、「みんな悩みを抱えている」と思いながら他人に接することは、一般的には良いことだと思います。
おわり
表現が揃っていないところ、言い回しが悪いところは、少し置いてから、気が向いたらなおします。
なんだかんだ、書くのに2時間以上かかってしまった。
おやすみなさい。