2020_08_10(月)

 久しぶりにnoteする。noteを更新していない間も、手書きの日記は書き続けていたので、書くことからは離れていない。ただ、公開する意味を見失っていた。ネット上に公開日記をーブログをー書くというのは、書くことそのものではない要素が入ってしまう。つまり他人に見られる可能性。他人から反応される可能性。私は、自分が他人を励ますような、あるいは喜ばすような文章をかけるとは思えないし、書きたくもない。書くという行為そのものに意識を向けたい気持ちと、私が書いたところで......という気持ちが合わさって、最近は更新をしていない。それに、私が自分自身について書くというスタイルでは表現できないようなことが最近は書きたいような気もする。そもそも書きたいことは書けないことのようにも思われる。書けば台無しになってしまうもの。ブログに書けば大台無しになってしまう何か。書くことの半分は音に由来する言葉遊びで、意味のつながりを無視すれば、ずっとキーボードを打ち続けることは可能だ。音は意味に入るのかもしれないけれど。窓の外を車が走る音がする。電子機器の静かな唸り。冷房の風音。静寂は概念で、点や線、面と同じだと気がついたのは、銀座の交差点を渡っている時だったように記憶している。ガレージの中に閉じこもりたい。でも8分後にはSNSかyoutubeを開いてしまうだろう。地下鉄の中では本かスマートフォンを眺めている人が9割で、ぼーっとすることは異端である。ただ一点を見つめて。あるいはぼんやりとした焦点で。目を閉じることはぼんやりするための免罪符だ。眠いふりをして血の流れに意識を向ける。ヘイ、ヘモグロビン。今日も頑張っているね。青い光に照らされて、2分後にはなにを良いと思ったのかすら忘れて、情報の波に漂う。羅針盤もナビも失って、すべては中途半端で雑然としていて混乱したまま、起き、食べ、働き、ニュース、排泄、風呂、等をこなして眠る。なにも解決しないまま、ただ忘れること、忘却に無意識に頼って日々を繰り返す。でもそれも仕方ないんです。社会だって常に実験実験で、成長の限界だとか、資本主義の限界だと言われているし、すべては一回性のものだから。大きなシステムが完璧じゃないのに、その細部が完璧なんてことあるのかしら。カートに入れるを押しながらそんなことを思う日。

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