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リレー日記(2025年1月20日~1月26日)文・nszw

バナナ倶楽部のメンバー4人が、1週間ずつ交代で日記を投稿します。今週の担当はnszwです。

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(リレー日記というものにおいて、自分の担当範囲以外の日のことについて言及するのはほんらい禁じ手とされそうだが、この日については、前日の自分の日記に書いていた内容を付記しないとなんのことかまるでわからなくなってしまうため、例外とさせていただきたい。以下は僕の1/19の日記からの抜粋である;)さいきんの「オードリーのオールナイトニッポン」における春日のトークゾーンは、通常フリートークにおいて削ぎ落とされそうな細部をだらだらと話し続け、CMに突入する前にオチまで話し終わらないということすらある始末で、その話しぶりといい、トーク内における春日の言動といい、「ジジイすぎる」という若林の評価にも首肯するほかない体たらくなのだが、これが不思議と聞いていてクセになる。このだらだらを期待している僕がいる。どこが盛り上がりどころなのかもわからない、むしろ肯定的に捉えるならばすべての部分が重要そうに聞こえさえする抑揚のつき方は、やはり何百回もフリートークを繰り広げてきたベテランならではのものなのだろう。しかしそうした抑揚だけでは、この独特なだらだらが楽しいということの説明はつかないはず。ではどうして楽しいのかといえば、端的にいえば、未完成だからだろう。十五年も続いているラジオという圧倒的なホームにおいて、安心しきった春日が繰り広げる、未完成で整理されていないトーク。そこに、僕は日記的なものを感じ取っている。
 よく練られたフリートークはエッセイ的であり、よく練られているがゆえにもちろん耳心地もよく楽しい。いっぽう、だらだらしているが即興というわけでもない春日のトークは、無駄とも思われる細部の充実によって、(おそらく本人の意図とは関係なく)生活の実感に満ちた日記のような感触を獲得している。日記とは未完成なものである、ということに、僕は春日のトークによってあらためて気づかされたのだった。

 春日のだらだらしたフリートークがどうしてクセになるのかをまた考えていた。整理されていない未完成なトークに日記的なものを感じ取っているからだと昨日は思ったけれど、もしかすると未完成っぽい完成なのかもしれない。
 未完成ふう、という匠の技というか……
 仕事のあと、弟と焼き肉に行った。いろいろと相談に乗る予定だったのだが、既に父や母と話して解決したそうで、僕の役割としては時すでに遅しだったということになる。しかし「父や母ときちんと腹を割って話すことができてよかった」と他ならぬ弟自身がいっていたのでよし。途中から同居人も合流して、同居人が僕の弟との共通の話題を見つけるべくあれこれと質問した結果、なんと弟が水族館好きだということがわかった。これは僕も知らなかった。僕は弟のことを知らないのではないか。さらに還暦の近い母に何かプレゼントをしようという話になった際にも、じゃあ何をあげればいいかという段になると僕も弟もとたんにアイデア乏しく、母のこともじゅうぶんには知らないのではないか、という疑惑が生じた。そうなるともちろん父のこともよく知らないということになる。僕は家族のことを知らないのだ。無関心というわけではないが、深くは知らない。感情的なコミュニケーションをとってきていない。それでも互いに良好な関係を築けているのならばいい、という見方もある。
 弟はさらに僕のためにiPhoneを持ってきてくれていて、というのも僕が何年も使っているAndroidのスマホの反応がずいぶん悪くなってきたということをこの前実家に行った際にふと漏らしたところ「じゃあ買ってあげるからiPhoneに変えなよ」という話になり、この歳でまだ親にスマホを買ってもらっていることにたいして口では恥ずかしいといいつつも心ではただただありがたいと思うばかりだったので言葉に甘え、そのまま父がネットで注文、あれよあれよという間に実家に届き、今日弟が焼き肉ついでに持ってきてくれたのだった。家に帰ってスマホ間の移行をしようとしたところ、Android、というかXperiaなのだがそれが急に動かなくなってしまい、強制的な再起動をかけるなどしてもいっこうに立ち上がらず、仕方なくiPhoneのみでセットアップを行った。LINEのトーク履歴を諦めれば意外といける。そもそもAndroidからiPhoneへの移行の際にはトーク履歴は二週間ぶんしか残らないそうなので、すぐに諦めもついた。
「Xperiaくん、iPhoneが到着するまでなんとかがんばってくれていたんだね、ありがとう……」
 と冗談で口にしてみるが、タイミングからするとほんとにそんな気がしてくるので不思議だ。

1/21

 昨日の夜はiPhoneの設定をしたりアプリをインストールしたりで寝るのが遅くなってしまったのだが、いじりながら「おお」や「へえ」と声を発し、しまいにはけたたましい音でアラームを鳴らし、先に寝ていた同居人が何度も目を覚ます事態となってしまってとても申し訳なかった。しかしあれこれいじってその後充電をしなかったにもかかわらず、今日一日電池残量が保たれているのがほんとにすごい。
 さらにうれしいのはカメラの起動の速さだ、これまでのXperiaはカメラの立ち上がりにおよそ三秒、シャッターボタンを押してからじっさいにシャッターが切られるまでにおよそ二秒かかったうえに、せっかく撮った写真が保存されずじまいということもしばしばで、そういう事情もあって写真は撮れれば超ラッキー、くらいに思っていたのだが、新たなiPhoneは初日ということで張り切っているのだろうがカメラの立ち上がりがとにかく速い。しかしその張り切りを表には出さず、
「カメラっすか? おいっす」
 といった雰囲気で起動させてくるのがニクい。
「おっと、カメラですね……、ちょっとお待ちください……、あれ、どこやったかな……、すんません、たしかこのへんにしまったんですけどね……、へへ……」
 と毎回額に汗を浮かべていたXperiaはまったく反応しなくなってしまった。まことに惜しい。カメラで遠くのものを撮るためにグイっとズームしたときのガビガビの質感。これには最新型のスマホでは得がたい渋さがあった。妙に横長なアスペクト比も、気に入っている点だった。しかしもうiPhoneへの移行を済ませてしまったいま、修理に持っていくほどでもない。奇跡的な復活を待つしかない。
 それで昨日の夜はXperiaの復活を待ちながら、「映像の世紀バタフライエフェクト」を見た。PTSDについての特集。ベトナム戦争中のソンミ村事件をきっかけに、アメリカ人兵士たちが戦争体験から来る精神的な後遺症を告白し、それが「Post-Traumatic Stress Disorder(心的外傷後ストレス障害)」と名づけられまとめられるまで、症状をうったえる兵士たちは周囲から「臆病病」などと呼ばれていたという。いまでこそありえない呼び方のはずだが、それをありえさせてしまうような逆行を平気ですることが想像できてしまう人間の第二期政権が、今日アメリカで始まった。

1/22

 何日か前に、コメダ珈琲新橋烏丸通り店に入店した際の謎のひとつとして「トイレの大便器がでかい。F1カーのコックピットくらいある。あるいは、たまにツイッターなどで流れてくる、力士が入っている白い酸素カプセル的なやつを彷彿とさせる。」という件をスマホにメモしていた。まさかその続報を書くことになろうとは思ってもみなかったが、書くべきことが起きたので書き記しておこう。僕は上記の謎を、日記に書いたのと同日に、なんの戯れかツイッター上でもつぶやいており、とうぜん誰からもリアクションがないまま数日を過ごしていたのだが、今日とつぜん知らないアカウントからリツイートされ、どういうつもりなのかと思ってそのアカウントに飛んでみたところ、僕のツイートだけでなくトイレ関連のツイート──それも僕がつぶやいたのと同じでかい便器についてのツイート──ばかりをリツイートしているひとのようで、そのアカウントがリツイートしている他のツイートを遡ることで、僕はコメダ珈琲新橋烏丸通り店の大便器がTOTOの「ネオレストNX」という高級品であることを知るに至ったのであった。
 さらに遡り続けることで、他のひとが「ネオレストNX」を何にたとえているのか知ることができるのもおもしろい。ペリカン、エヴァ量産型、宇宙船、新幹線、緊急脱出ポッド、……
 コメダ珈琲の一部の店舗にこの「ネオレストNX」が導入されているらしいということもわかった。気まぐれなつぶやきが思わぬ形でマニアのひとに拾われて、僕の知見まで少し広がるのはツイッターの楽しさだともいえるが、そんなツイッターが幼稚な大金持ちに私物化されているのはあらためて考えると悲しい。
 ……同居人は今日は有休で、米津玄師のライブにお母さんと行っていた。いっぽう僕はこのところBad Bunnyのアルバムばかり聴いている。京都にいたときにもずっと聴いていたので、京都の思い出みたいになってしまっている。京都とBad Bunnyは僕のなかでは近しい組み合わせとなった。

1/23

 仕事でとてもおもしろい話を聞いた帰り、脇に置かれている造花のひとつひとつをポン、ポンと叩きながら動く歩道を歩いているおじいさんがいておもしろかった。夜、会社を出て同居人と合流して歩いていると、前を歩いていたおじさんが書道教室のビラを取るか取るまいか悩んだ末に取らずに立ち去っていておもしろかった。日々のいろんなあれこれがおもしろい。おもしろい、というのは、美しい、ということだ。文フリで買った冊子も少しずつ読んでいる。これもやはりおもしろい。文フリに出店するようなひとたちの文章には必ずそのひとならではの視線が表れている。それを安易に〝文体〟と読んでしまってもいいのかもしれない。

1/24

 夜、ディズニープラスで『モアナと伝説の海』を観た。冒険活劇であり、はつらつとした主人公が自らのルーツを辿る物語でもあって、とてもおもしろかった。終盤はほぼ『もののけ姫』だった。影響を受けてもいるのだろうが、それ以前に、「人間に命や心を奪われた神が暴走して世界を滅ぼそうとする」という神話の類型があるのだろう。それと、
「この歌、モアナの歌だったか!」
 という気づきもあった。
 タイプロの最新回も見た。同居人は相変わらずズビズビと泣いていた。というかモアナのときも泣いていた。

1/25

 三日前の日記に書いたように、いまはBad Bunnyのアルバムを聴くと先週の京都一泊のことを思い出す身体になっていて、さらに具体的な場面を挙げれば、ちょうど一週間前の土曜日の夜、京都駅前のドーミーインに荷物を置いて街へ繰り出し、京都駅の大階段のイルミネーションの上で子どもが楽しそうに飛び跳ねているのを見ていたときにも僕はおそらくBad Bunnyを聴いていたのだろう、とか、そのあと駅の南に出て九条のほうまで歩くも、特に下調べをしていなかったがゆえによさげな店を見つけることができずに引き返したときにも僕はやはりBad Bunnyを聴いていたのだろう、とか、けっきょくドーミーインの近くまで戻って第一旭というラーメン屋に並んでいたときにもBad Bunnyを聴いていたのだろう、いや、これについては、だろう、ではなく確実に聴いていたと記憶している。夜なのにラーメン屋は並んでいて、僕は前後を男女二人組に挟まれる形になり、店の外まで待機列を確認しにきた店員さんにたいしてイヤホンを外して「あ、ひとりです」と答えたときに、前後の男女たちが韓国語でしゃべっているのが聞こえてき、そのあとあらためてイヤホンをつければ今度はスペイン語の歌が流れ、京都おもしろ〜、と思ったのだった。
 さらに京都の思い出でもうひとつ日記に書いておきたいのは、文フリ京都に向かうにあたってGさんやMさんに渡そうと買った手土産、これを僕は本能寺の近くの和菓子屋で買ったのだが、商品名としては「やきいも」という、たしかに見た目は焼き芋に似ているがたんなるスイートポテトというわけでもなさそうなその和菓子を、けっきょくなんなのかはよくわかっていないまま文フリの会場でGさんに渡したときに、「あ、これ、なんか「やきいも」っていうらしいんですけど……」と要領をえない説明になってしまったことが悔やまれる。
 そこから一週間が経って、今日は夕方まで仕事だった。そのあと夜は家で『シービスケット』という、傷や孤独を抱えた三人の男たちが一頭の競走馬に魅せられ、山あり谷ありあって最後には大団円を迎える映画を観た。これは同居人の会社のひとがオールタイムベストだとして貸してくださった映画で、ちょっとチョケてあらすじを書いてしまったが、たしかに重厚、というかさいきんはもう作られていないような古きよきアメリカ映画という感じがしてよかった。二〇〇三年が〝古きよき〟になってしまっている感覚は奇妙だが、ちょうど『スパイダーマン』の頃のトビー・マグワイアが出ているのでやっぱりなんとなく〝古きよき〟ではある。そのトビー・マグワイアが、本作の主人公ともいえるシービスケットという馬の本気の走りを初めて体感したときの表情が、スパイダーマンとして初めてうまく飛べたときの表情とまるっきり同じでウケた。実話ベースの映画ならではの(特に序盤に顕著な)淡々とした物語進行も、その内容が悲劇的であろうがウケてしまう。逆に序盤の悲劇的展開があまりにスムーズに描かれていたがゆえに「もしかしてこれ実話ベースかな?」と気がつかされるという逆転が起きた。しかしそれも、レースシーンの白熱の演出によって、あたかも省略の美学であるかのように思えてくるのが素晴らしかった。

1/26

 FKA twigsの新しいアルバムもとにかくかっこいい。急に出てくるノースちゃんの日本語の上達にも思わずウケてしまうのだが、それはそうとしてFKA twigsというひとは実験的な音楽家であると同時にやっぱりポップミュージシャンでもあって、今回のアルバムでも最後の"Wanderlust"の比較的素直な美しさに感動したりしている。今日は朝から同居人がちょっと仕事だったので一緒のタイミングで家を出て、カフェで読書したりスマホで書いたりしながら聴いていた。
 そのあと同居人と合流して、『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』を観た。おもしろかった。ドナルド・トランプというひとにたいし、その〝ほんとうの姿〟を描き出そうとするのでなく、あくまで誠実に人間的想像力をはたらかせようとしながらも、同時に娯楽映画としても成立させていた。〝ほんとうの姿〟というものを考えることは、かえってその対象と我々を切り離すことに繋がりうる。そうではなく、あくまで、彼は我々と同じだったのかもしれない、という想像力をはたらかせる。その意味でこれは伝記映画というわけでもないのかもしれない。
 想像力をはたらかせる、というのは、このところずっとだらだらと読んでいた『核時代の想像力』のなかで大江健三郎が繰り返し述べていたことで、それもちょうど今日読み終えた。すごくいい本だった。若き日の大江健三郎、いや、もう僕にとっては「健三郎」だ、その健三郎が『万延元年のフットボール』を書き終え、おそらくは『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』に収録される各編を書いていたであろう一九六八年の一年間、主に「想像力」について月一で講演した原稿をまとめた本。健三郎は自らをオプティミストだと語るが、それでも講演中には、核ミサイルの発射ボタンひとつで世界が滅亡しうる時代に生きていることの絶え間ない不安が表れている。その不安は『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』収録の「走れ、走りつづけよ」にも描かれる。絶えず直面し続けなければならない現実の不安を、小説のなかにも恐怖たっぷりに、しかしある意味痛快ともとれる形で描く。これこそまさしく小説家の仕事だと感じさせられた。

イマジネイションの世界で生み出されたものもまた、この現実世界に赤裸のかたちで連なっているのであり、そのイマジネイションの飛び石をつたうことによってわれわれは、また新しい現実世界の向う岸にわたってゆくということがあります。想像力が絵空事に限定されるのではなくて、広く現実認識の方法なのであり、他人とのコミュニケイションとしての言葉の機能というものが、まったくそのまま想像力の機能なのだということは、現実に具体的に自分で検証してみればすでにあきらかに見えています。

大江健三郎『核時代の想像力』(新潮社)p.311

みせしめの地域的な核戦争がわれわれの頭上ではじまる時、僕ときみとのどちらが無用な悪あがきをするだろう?(中略)きみは発狂しそうに怖くても自分で自分の始末をつけなければならない!

大江健三郎「走れ、走りつづけよ」
(『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』より)(新潮文庫)p.79

 夜は同居人が友だちたちと新宿で食べてくるというので、僕は散歩したりしていた。



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