時計、指輪、万年筆。時代遅れの道具が愛おしい
そういえば時計の電池が切れていたのだった
そういえば、時計の電池が切れていることを思い出した。別になくても不便はなかったので、机の中にしまったまま、陽の目に当たらず半年以上は放置されていたと思う。
別にいまの時代、時計なんてなくても不便はしない。ポケットにはいつでもケータイが入っている。
それに、なんの機能も持たない、ただ時刻を知らせるだけのツールなんて。スマートウォッチを使えば、ケータイに届いた連絡をいち早く見ることもできるし、自分の健康管理までできてしまう。
バッテリーが切れた時計を直すのに、街の時計屋を探して、お金を払って、数十分も待機して……。なんてめんどうなんだろう。スマートウォッチなら、コード一本…いや、ワイヤレスならそこに置くだけで良い。
なのにこいつときたら、あれもこれもしてやらなければ動くこともできない。そんな手間をかけてまで、果たして意味はあるのだろうか。
ただのアナログ時計なんて……
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最近は時計の電池交換も一苦労だ
最寄りの駅周りを歩き回る。
時計屋を探すのも一苦労になったものだ。昔は「時計屋」というのがいくつもあったのに、いまはその姿を見つけることがむずかしい。時計の電池を交換できる場所が、こんなにもすくなかったなんて。
ほんと、ここまで苦労する意味はあるんだろうか。めんどうだな。しかしここまで来て諦められないので、思い当たる場所に向かって片っ端から自転車を走らせた。
いっそ、捨ててしまおうかとも思った。別に、こいつがなくても生活に支障はない。そこになくったって、僕の日常は昨日と同じようにカラカラと回り続ける。
でも、気に入ってはいるのだ。
シンプルなデザインで、飾りすぎない。でも、アクセントとなるオレンジ色の針が「他の奴らとは違うんだぞ」と誇らしげである。
Knotという国産メーカーの時計で、かれこれ十年以上、壊れずに時間を刻みつづけている。肌身離さず使っていたわけではないから、「相棒」と呼べるほどの仲ではないけれど、古い付き合いではある。
時計はこれ一本しか無い。お気に入りの一本だけあればいいと、むかし、いくつか持っていた時計はすべて処分したのを思い出す。そういえばそのときも、これだけは手放すことができなかったのだった。
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秒針を刻む音を懐かしんですするコーヒー
ようやく見つけた。デパートの1階にあるカギ屋さん。
あまり専門職というわけでもなさそうで、心配になる。けれど、一般的なクオーツ時計の時計交換ぐらいなら問題ないだろうし、なによりこれ以上探し回るのも嫌なのである。
価格は1,100円。できあがりまで時間がかかるので、30分後にまた来てほしいとのこと。また、日をまたげないので、今日中に確実に受け取りに来てほしいとも念を押された。
時間も、手間もかかる。それだけの価値はあるのだろうか…。ノリとテンションでここまで来たけれど、なんだかちょっと後悔もしてきた。次に電池が切れたら、もうサヨナラしてしまうかも…。
そんなことを考えながら、暇つぶしに入ったスターバックスでコーヒーをすする。
——しかし、わくわくしている自分もいる。久しぶりにこの時計を身につける。ちょっときらびやかになる左手を想像して、コーヒーも美味しくなる。
時計を外して、耳に当てる。すると、小さな音でコツコツと秒針が鳴る。この音が好きだった。あの音を、もう一度聞きたい。
気づけば待ちきれず、予定の5分前に時計屋に到着してしまった。僕の姿をみたら、急かしているような態度に見えるだろうか。そうだったら申し訳ない。
店員のおじさんと目が合う。ニコリとほほえみ、「できあがっているよ」と目で語ってくれた。
秒針がせわしなく動きつづけていた。こいつはまだまだ壊れず、また僕と一緒に過ごしてくれるらしい。
手首に巻く前に、耳に当ててみる。一定のリズムで、今日も変わらずにコツコツと音をたてていた。
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あとがき
教訓めいたことは特にありません。ただただ時計の電池を変えたって、それだけの話です。
もしひとつ、それっぽい教訓にするのであれば、道具にとって必ずしも「役に立つか否か」が大事なのではない、とは言える。
僕がいま手にしている、時計、指輪、万年筆。これらは別に、僕の生活を豊かにする道具ではない。しかし、僕の心を豊かにしてくれる。
それを手にして、身につけている人の心温が0.3℃上がるなら、それで十分、僕にとって必要なのだ。