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インド古典舞踊初公演
10年。
これは私がインド古典舞踊に出会ってから今日までの年月だ。
四日市での初公演を、節目の年に狙いを定めた訳ではない。
何年も前から『四日市で公演をしたい』と言っていた。それでもすぐ開催に向けて動き出す事はなかった。
なぜ今。公演を開くことが出来たのか?
考察しながら、公演に至るまでを振り返ると共に、人生の次のステージへ進むための心の変化を記録する。
『情熱が全て』
開場の1時間前。衣装の着付けや化粧をして準備に勤しんでいる時の事。
踊りの先生から、今回の公演の準備に対する私の様子についてかけてくれた言葉だ。
この時まで、私は自分の事を『情熱を持って取り組んでいる』と見たことは無かった。
今回の公演は、後述する私なりの目標があった。
その目標に向かって準備を進めていただけだった。
『情熱』とは何だろう?態度だろうか?振る舞いだろうか?言動なのだろうか?
自己認識に疑問が生じた。
そもそも、私は『情熱』をどのように捉えていたのだろう?
自分が思い描く『情熱』の情景をじっくりと観察する。
そうすると、今までは『情熱的に見えるパフォーマンス』を『情熱』だと思っていた事に気が付く。
気付くというより『自分の間違いをようやく認められた』の方が正しい。
『情熱』とは?改めて考えた時、『信念』や『在り方』に近いものなのではないか?と思った。
それらは目に見える分かりやすいものではない。
そして『見よう』と思わなければ、見ることが叶わないもの。
これまで私自身が『派手な振る舞い』や『キャッチーな言動』に振り回される質だったことが、今回の気付きの証明だ。
どこか『パフォーマンスめいた自分の振る舞い』に『おかしくない?』と違和感を感じていた。この空回りする感じ。
ギアとギアが噛み合わず、上滑りする感じ。
上滑りし続けるギアが徐々に摩耗し、遂に噛み合う事が叶わず四散する感じ。
身体は正直で、違和感に気が付いていた。
私自身も『何かがおかしい』と気が付いていた。
ようやく今回の経験を経て、自分感覚に正直になれた。
履き違えた『情熱』のイメージに翻弄されていた。
情熱は疲れるものだと思っていたが、自分のイメージに振り回されていただけなんだろう。
情熱的になると消耗する。だから情熱的になりたくない。
そんな単純な図式ではない事を、この年で気付いた。
もっと早く知りたかったと思ったが、私が思う以上にこの事実に気付かず年齢を重ねる人は多いのかもしれない。
例えば、感覚のズレを、ズレたままにしている人も多いと思う。
でもズレたままでは居心地が悪い。
だからズレが露呈しないように。ズレを見なくても済む程度の人間関係で収め人を、私は沢山知っている。
見てほしかったのは『踊り』ではない。
これまで『公演したい』と思いながらも出来なかった理由は『公演する理由が無かった』からだ。
もっと正確に言えば『なぜ自分が踊りに惹かれているのか、私自身が分からなかった』から。
踊りに限らず、物事には多様な側面がある。
私は特に『長い年月をかけて受け継がれてきた伝統』という部分に惹かれると思う。
インド古典舞踊には型がある。
型は何百年も前の人たちが考えたもの。
その型を今を生きる私達も修得している。
型を習得する過程で、何百年も前の人も「もっと腕を上げて」とか注意されたのだろうか。
文字や書籍で残された記録ではなく、身体の動きを通じて受け継がれているものがある。
受け継がれる伝統の中でも、言語では表せないもの。
身体の動きに込められたメッセージが好きなのだ。
昔も今も、顔の動きから受け取る感情表現は、そんなに変わらない。
眉を寄せれば【不快】な感情を感じている。
片眉だけが上がれば、、、どんな感情を感じている、と読み取るか?
人間は前頭葉を始めとする脳を発達させた生き物だ。
大きくなった脳で社会的な営みを行い、社会全体を発展させてきた。
人間一人の一生に比べて、人類が蓄積してきた経験値は膨大だ。
ひとりの人間が、一生の間に使いこなせる知識や知恵は、全体量の極わずかなのだろう。
何を知り、何を志すのか?
膨大な知識に埋もれて、ひとりの人間として【何を大切にしたいのか?】を見失わないように。
それは経済成長や発展を目指してきた時代とは異なり、現代を生きる私たちの課題だと考える。
踊りには、表情や身体という生身の人間を通じて【人間とはどんな生き物であるか】を、原始的な表現で伝えてくれる力がある。
【踊りを通じて人と人を繋ぐ】
人と人はどんな時に繋がりを感じるのだろうか?
実はこれ、私がずっと考えていることなんです。
今回『始まりの物語』として公演を行ったのも【繋がりを感じる】仕掛けが、【自分の過去を話すこと】と【他人の過去の話を聞くこと】の間に発生する出来事なのではないか?という私の仮説によるもの。
ただ聞く、話すだけでいい。
特別なリアクションは必要ない。
情熱的な感想も要らない。
印象に残る返事をするより、【繋がりを感じる】のに、【話を聞いてもらった、話した】という事実があればいい。
脳は細かく何かを覚え続けることはできない。
ただ【その時に感じた感情・感覚】は残り続ける。
10年の節目。
沢山の方に協力、応援してもらった。
また新たな10年が始まるのだと思うと、遠いようなあっという間のような時間に感じる。