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大和鉄脚走行会
『義足ユーザーの陸上練習会がある。』
それを聞いて「行こう」と思うのに、時間はかからなかった。
私の中に『興味が湧く』=『実物を見る、体験する、行動する』という方程式があると気付いたのは、最近のことだ。
なぜ最近まで気が付かなかったのか、といえば、自分にとってそれが当たり前だったからだ。
もっと掘り下げて言えば『それ以外の方程式が存在する』という事に気が付いていなかった。
先日、大和鉄脚走行会にお邪魔した。
個人ではなく、UDほっとねっとというNPO法人の理事として。
ここでもまた、たくさんのことに気付かせてもらったので、いくつか記しておく。
競争の概念
順位を付けることが苦手だった。
誰かに順位を付けられるのも、誰かを順位付けするのも。
表彰台のように、上位には場所が与えられる。
が、上位に入らなければ、場所をもらえない。
それが私には『排除される』ような感覚に思えて、居心地が悪かった。
パラリンピック出場選手が来る、と聞いても、自分の中の複雑な気持ちが解消されなかった。
こんな気持ちのままで見学に行っていいのだろうか、と少し怖かった。
練習を見学している間、サポーターの方から説明を受けた。
「はじめは義足で立つのも怖い。歩くのも、走るのも。
だから芝生の上でウォーミングアップをする。
陸上のトラックはもっと怖い。硬いからね。こけると痛い。
でも、先月は何歩だったけど、今月は何歩歩けた。
先月は30m走るのに何秒だったけど、今月は何秒になった。
上手くいかない時は、他の人がコツや改善点を教える。
先生や理学療法士が教えなくても、参加者同士で教え合っている。
そうしている間に、少しずつ歩ける距離が、走る速さに変化が起きる。
そうやっている間に、速く走れるようになる。」
価値観が180度変わった。
そうか。誰かと競うのではなく、常に昨日の自分と向き合っているんだ。
ずっとずっと、昨日の自分と向き合って、昨日よりできた、を積み重ねているんだ。
時には、同じように自分と向き合っている人と競って、また自分と向き合って。
時には、つまづいて立ち止まっている人に、自分が気が付いたことを伝えて、教えてもらって、励まし合って。
そうやって、少しずつ進んでいくんだ。
スポーツをやっている人が全て聖人だとか。
そういうつもりはない。
ただ、みんな何かに向き合った結果、今があるんだ。
競争も、競争の結果も悪くない。
以前より少し素直に、大舞台で戦っている人を応援できそうだ。
方程式の段階の話
『興味が湧く』=『実物を見る、体験する、行動する』
『行動が伴わなければ、興味がないということ。』
そんな白黒思考に陥っていたことに気が付いた。
今までは、自分が興味を持っているもの、最近挑戦していることを話しても
相手が「僕も、私もする~!」
というポジティブな反応ではなかったら。
勝手に『興味がないんだな』と受け取っていた。
それは、相手が興味を持って
『それってどういうこと?』
と問うてくれても『やってみたら分かる。』と切り捨てて説明しない、自分自身の投影なのだ。
最近、私の根底にあるのは
『一緒に遊ぼう』
という感覚だ。
一緒に遊びたかったら。
興味を持ってくれる人、面白そうかも?と思ってくれる人が増える。
それから、一緒に遊ばなくても、遊びがあることを知ってくれる人が増えること。
「自分は(色々な理由で)一緒に遊べないけれど、興味がありそうな人がいたら、伝えるね。」
と言ってくれる人が増えること。
「一緒に遊ぶことは出来ないけれど、お金なら出せる」
という人がいてもいい。
それぞれ、人は出来る範囲で協力してくれる。
これが方程式の段階。
私はこれまで白か黒でしか判断できなかった。
『私がグレーくらいの興味を持ったもの』に対する立ち居振る舞いは、今まで身につけていない。
もったいないことをしてきたな。
そう思う反面『今まで白黒の判断しかしてこなかった』と、気付いたからこそ、この言葉が書けているのだと思う
方程式だけでは意味がない話
『○○を好きになってくれる人を増やすために、話を聞いてくれる人を、限りなく黒に近い人、グレーの人、白に近いグレーの人。ってカテゴライズすればいい。』
という話ではない。
これも自分が陥っていた考え方。
この考え方の癖に気が付かず、自分自身を苦しめていた原因でもある。
カテゴライズは確かにあると思っている。
けれどそれは、後から考えたら「あった」というものだと、今は思う。
相手をカテゴライズしようとすることは、目の前の人に興味・関心を抱いていない。
相手の話を聞いていない。
ということだと、今は感じている。
方程式があるなら、とっくに広がっている。
最近「今を生きてください」と言われたことを思い出した。
豊かに生きる
自分の中の未熟さを直視することは、とても苦しい。
けれど、未熟だったと気が付けるということは、自分が少しは成長したということだ。
これまで、未熟さに気付きそうな瞬間は何度もあったように思う。
未熟さを直視する痛みに耐えられず、知識に逃げたり、自分に言い訳をしていた。
昨日より今日、今日より明日。
一歩ずつ、痛みと向き合いながら進む。
時々、痛みが強くて動けなることもある。
そんな時は乗り越え方のコツを教えてくれる人がいる環境に身を置く。
痛みを乗り越え続ける強さを、少しずつ誰かにおすそ分けできれば、豊かになるのかもしれない。