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Photo by
satomigoro
心の瞳で
皆さん、合唱をしたことはありますか?
私は中高6年間、学校は違いますが合唱コンクールがありました。
皆さんはいかがでしょうか。
さて、数ある歌の中に、坂本九さんの「心の瞳」という曲があります。
歌い出しは
心の瞳で きみを見つめれば
愛すること それが どんなことだか
わかりかけてきた
とあります。
私たちは日常の中で、言葉を使います。
「時間」とは、「愛」とは、「心」とは。
学生の頃、先生が授業でこのような話をしていました。
(なんの授業だったかは忘れてしまいましたが機械学習だったかな… …?)
「犬も猫も見たことがない子供に、この二つの違いを説明してください。」
犬って、何? 猫って、何?
額の狭い犬や猫もいれば、足の短いのもいます。
子供が紙に描いた動物は、果たしてあなたの定義した犬でしょうか?はたまた猫でしょうか?
私たちは、目に見えない暗黙知を言葉にして、明確でない境界線で、ひとまとまりにします。
そして、私たち人間は、外界から多くの情報を、視覚から得るわけです。
ですから、その定義も目に見える「視覚」に表されるものが多くなります。
では、目に見えないものはどうでしょうか?
私たちが暗黙知を得るのは視覚でしょうか、それとも共感でしょうか。
目に見えない何かを定義するとき、私たちは心の瞳で、それを観察します。
「愛」「国」「正義」。
国や言語、時間を超えて得られる暗黙知は存在するのでしょうか?
何かをわかろうとするとき、もう一つの瞳を大事にしたいなと、そう思ったりもします。
広げた風呂敷の畳み方もわからないので、今日はここまで。