#154 過干渉かもと思ったら
尾石晴さん(ワーママはるさん)のvoicy「我が子を社会の預かり物だと考える根源はこれだ」を聴き、
子供との関わりのなかで、今の私にかなり刺さった内容だったので、今日はこのテーマで。
私が大切にしたい価値観の1つに「自立」といつキーワードがある。
子供に対して、
いかに「自立」をサポートする存在になれるかということは、日頃から意識していること。
ところが、そんな意識を持ちつつも、
宿題がまだ終わってない、
あの分野のテスト対策ができてない、
リュックの中に水筒入ってない、
寝る時間が遅い、
歯磨きがザツ、
上着を着ないと寒いでしょ、
…とまぁ、これでもかって言うくらい
ありとあらゆる事が目につく。
本人よりも気になるし(まぁ、子供はそこまで先を予測しないから当然なのだけど)、
つい先回りしてしまうことがある。
矛盾してないか。私の意思の甘さか。
…なんてモヤっていたところ、
上記の尾石晴さんのvoicyがかなり腑に落ちた。
そこでは、「バウンダリー(自分と他者との境界線)のゆるさ」という表現をされていた。
そうそう、そういうことなのよ!と思った。
これは、意思の問題というよりは、
そもそも、その人自身が持つ「バウンダリー」がどれだけクッキリしているのかということ。
「バウンダリー」という言葉は、
非認知能力の学びにも登場していた言葉。
このバウンダリーがゆるい人は、共感力は高い傾向がある。
ところが、時間もエネルギーも消費されていきがち。
一方で、バウンダリーがクッキリしている人は、その問題は本人の問題であり、本人でしか解決できない、と認識している。
私の母は、バウンダリーがゆるく過干渉がち。
反対に、父は、バウンダリーがクッキリしていて、「いつか大人になってきっと気づくだろ」くらいの気持ちで子供達と関わっていた。
どちらが良いとか悪いとかじゃなく、
自分が過干渉かもしれないと悩んだら、
もしかしたら、自分は、
あらゆる面でバウンダリーがゆるいタイプなのかもしれない、と疑ってみることに意味があるなと思う。
そして、
自分の傾向を客観的に把握したうえで(さらには、「それも私」と認めたうえで)、
ありたい姿へ微調整していけば良いと思うこの頃。
疑問をもち、認め、選択する。