遊びがないものは、息苦しい。
最近はWebを使うときに、なんとなく苦痛というか、息苦しさみたいなものを感じることが少なくない。
その理由を考えてみたところ、以前に比べて「遊び」というか「隙」というか、自分で選び取る自由みたいなものが排除されすぎているのでは? と思うようになった。
Web制作界隈ではUI/UX設計という考え方があって、平たく言うとWebサービスを使いやすく、サービスを使う人(ユーザー)の体験まで設計しましょうというものだ。
ここをしっかり設計することで、ユーザーは寄り道することなくほしい情報や商品・サービスにアクセスできるわけだけど、逆に言えば道草することで得られたはずの体験や発見を取り上げてしまうことにつながるのではと思った次第だ。
僕が学生の頃はまだ「ネットサーフィン」が死語ではなく、「たけしのホームページ」でキリ番報告とかをローカルな「みんな」で楽しんでいた時代だ。
その頃は多分UI/UXみたいな概念自体なくて、サイト内のどこに何があるのか、どんなコンテンツがあるのかなど運営者が好き勝手やっているケースがほとんどだったように思う。
「隠し部屋」みたいなページがあって、あえてテキストリンクが背景色と同じになっていてユーザーはマウスドラッグして探し出す、みたいな無駄を含んだコミュニケーションを楽しんでいたものだ。
また同時に「たけしのホームページ」を取り巻くコミュニティが閉鎖的で、そこでしか通用しないローカルルールみたいなものも少なからず存在していた。
先にも挙げたキリ番報告などがいい例だ。
でもWebが発展するにつれ、検索エンジンがWebを巨大な図書館に作り替えてしまった。
その過程で生まれたのがUI/UXという考え方で、その結果、「知りたいことしか知れない」という(僕的に)つまらないインターネットへ変貌を遂げてしまったのではないかと考えている。
Webが苦痛に感じる理由は、もう一つある。
それはSNSの普及によって、「知りたくないことまで知ってしまう」ことだ。
実際のところ、芸能人の不倫なんて誰が興味あるだろう?
どこかの誰かが垂れ流す旦那や義母の悪口なんて、それこそ日記帳にでも書いてろという話である。
でもそういうノイズ的な情報が、SNSでは「おすすめ」として流れ込んでくる。
言うなれば自分の興味・関心と無関係な道草を強要され、無駄に時間と気力・体力を浪費させられるような仕組みに、昨今のWebはなっているように感じるのだ。
ここまで書いて結局何が言いたいのかというと、UI/UXだとか言ってひたすら効率化や便利さを求めるのは考えものだということ。
行き過ぎた設計はユーザーから主体性を失わせ、Webがかつて持っていたワクワクを奪った無味乾燥なものにしてしまう危険をはらんでいるように思うわけだ。
AI技術が発達して世の中がより便利になっていくからこそ、これからのWebには「たけしのホームページ」的な不完全さを求めてもいいのかもしれない。
完璧なもの、遊びがないものは息苦しいのだ。