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雑な好きさ
10年後に、上井草の景色が好きだと思った。
なぜなのか考えてみた。
上井草には10年住んだ。小学6年生から社会人1年目まで。そしてその間、上井草は別に好きではなかった。それは、ほぼポテト屋のマクドナルドが高校生の時に前触れもなく閉店したことや、駅に対岸ホームへ渡る歩道橋がないから目の前の電車を何本も逃してきたことや、距離が近いくせに隣の駅には急行が止まることや、微妙に見知った顔を見知らぬ人間として通り過ぎることが、まるで半乾きの洋服を着ている時の中途半端な不快さを思わせたからだった。
団地の鍵穴に鍵を挿すたびに、穴の形が変わっちまわないかという一縷の期待を抱いても、実家の扉は鍵穴の形を変えないまま律儀に鍵を受け入れ続けた。家主が疲れ果てて、誤って鍵の代わりにパスモをかざした時にだって、扉は無反応に、ただ一つの形を待っていた。なんて面白くない扉なのか、たまには間違えろ、まるで上井草みたいな扉だな、などといちゃもんをつけた。
そして数週間ぶりに上井草で降りた。夕暮れ時の踏切で、つまらないはずの街をぐるっと見回して、直感的に好きだなと思った。
よく知っている風景だからだろうか。いや、よく知っているからという理由で好きになるとは限らない。知っている歌を必ずしも好きにはならないから。本当に好きなのか?と我に返る。好きという感情を丁寧に捉え直す必要がありそうだ。上井草の景色を見てどう感じる?「懐かしい」と感じる。懐かしいから好きなのか?いやそうではない。ではなぜだろう、と思った時に、すとんと明快に合点がいった。
この景色を見て思い出す別の記憶がある。この空をトリガーに思い出す色、音、形、匂いがある。それはすなわち母が台所で野菜を切る音、帰りがけにかけた電話から聞こえる電子的な友人の声、飲酒して帰った夜に上げたウォークマンの音量ボタンの感触、早朝のアルバイトで始発を待った黎明の光。経年で熟成された愛しい記憶があるから、上井草の景色が好きになったというわけだった。
まあでももう住まないが。至る所に記憶のトリガーがあって、奈良漬みたいな味がする。要するに味が濃すぎる。だからたまに味わうくらいでいい。そういう街が、自分の中に一つあってもいい。
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