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【結局SOFT BALLETとは何だったのか?】

 よし。
 というわけで「そもそも」なテーマとなってしまった。当然というか業というか。
 SOFT BALLETの実在を問う、たぶん決着しない文章である。あーあ書き始める前に言っちゃったそんなこと。
 
 ソフトバレエ(以下ソフバ)は、ここのところ連続で書いてきたようにクセが強い、というかクセしかないトリオによる奇跡的なバンドである。
 サイケ趣味を我慢して暗黒に身を隠す「宇宙野郎」遠藤遼一(ヴォーカル)
 奇声を発して踊ることで劣等感を隠す「クネクネ踊る金髪」森岡賢(鍵盤)
 存在を消してガスマスクで顔さえ隠す「破壊こそ我が人生」藤井麻輝(鍵盤、ギター、プログラミング)
 そんな自分を隠しまくる3人が、たまたま科学融合のように合致した結晶、それがソフバである。
 各人についても以前に遠藤→森岡→藤井の順で書きまくっているので、ぜひそちらも参照されたし。
 
 ソフバは初期こそ「エレクトリック・ボディ・ミュージック」を標榜するバリバリのテクノだったが、自然と生音が増えてノイズも加わり、アンビエントなど表現要素を増して変化を続けていった。メンバー間の軋轢やしがらみから解放された矢先に活動停止、まさかの復活後はラップまで入ってますます「ゴチャ混ぜ」になって完全停止した。
 もしもこうした路線変更を続けていなかったら、デビュー時の作風に縛られてしまった同期生のM-AGEのように自然と解散へ近づいていっただろう。人数の増減があったとしても、BRAIN DRIVEのように一本木な活動は続かなかっただろう。どちらも「テクノっぽいロック」ということでくくられることもあったビクター時代のレーベル・メイトだが、交流も関係も何もない。
 その変化はメンバーの趣味嗜好・指針などにより有機的に変化していった。音楽はデジタルでも、作曲や演奏は人間である。ましてヴォーカルの楽器は「声」だ。ソフバの場合、特にスタートの音色が無機質一色なだけに、その後の変化が実に有機的に感じられたものだ。
 
 では恒例。ディスコグラフィおさらい。
 藤井は「裏方」なのでやらなかったけど、ここで作風とメンバーの容姿を振り返ってみよう。
 
 
1st『EARTH BORN』(1989年)
 森岡の楽曲が多く、藤井がそれを構築するような形なので、全体として「もろテクノ」。多少のギターなどは重なっているが、ドラムは打ち込みで音のほとんどはシンセやプログラミング。ヴォーカルは華奢で、振り返ってみればそれこそM-AGEのよう。
 ジャケットでは遠藤・藤井が角張った黒のレザー風スーツで、今思えばスペーシィでヘンな衣装。全身タイツに鎖カタビラのようなキラキラ金属服を羽織る森岡とあわせ、いかにも「90年代の先取り」という感じ。遠藤は肩までヘアにソバージュ(時代だなぁ)、森岡はここからずっと短い金髪、藤井は長いモヒカンを垂らす奇抜なスタイルと、いきなり「ヘンです(←藤井)」。
 
2nd『DOCUMENT』(1990年)
 遠慮がちだった藤井が前に出て、森岡もヒネった作曲をするようになり、一気に妖しい雰囲気に。方法論としては前作に準じているが、ギターを中心に生音も増えてライヴ感が増している。
 ジャケでは遠藤はストレートになったものの長髪のままなのに対し、藤井は極端な刈り上げに。森岡は変わらず。3人ともモード風の衣装でキメているのは、よく比較されるデペッシュ・モードを意識でもしたのか? その中間にある「TWIST OF LOVE」のPVでの遠藤が前作のスペーシィ衣装路線なところが過渡期で、まだ個性を出せていないように感じられて面白い。
 
3rd『3 (drai)』(1990年 ※ミニ・アルバム)
 ソロの作風を探り合い、次の方向性を探している感じ。このインターバルがあったおかげで各人が自分のパーソナルを見つめ直し、互いに認識し合い、次のバンド代表作となる傑作を生むことができたはず。
 アップ写真のジャケでは判明しないが、遠藤までこの時期に髪を切り「日本一ショートカットの似合うバンド(森岡談)」になった。
 
4th『愛と平和』(1991年)
 疑う者なし(←VIRTUAL WAR)の、ソフバの代表作にして出世作。作曲が森岡・藤井で半々となり、正と負のバランスが釣り合っている。そのため通して聴いても起伏に富み、テンポも流れもよく、コンセプト・アルバムのごとく全体の構成が最も優れている。それでいて歌主体を貫いており、ここで「ポップなロックのSOFT BALLET」が究極を見せ、同時に終了したと見ていい。
 遠藤は少し伸びた髪を「3ヶ所立て」していた時代。しかもここでローブを着て一気に「暗黒王子」に変化したことが大きい。森岡は髪型はそのままにメイクは濃く、衣装はハデに。転じて藤井はどんどん髪が短くなり、衣装も渋くなり、ステージではガスマスクで顔まで隠す。
 
5th『MILLION MIRRORS』(1992年)
 ヒットを出してアルファ・レコードに恩返ししたソフバは、経営難のアルファから離脱してビクターに移る。そのおかげで当時ビクターだったBUCK-TICK、THE MAD CAPSULE MARKET'S、LUNA SEAなどと交流が深まる。はっきり言ってそれまで孤高というか孤立無援すぎたのだな。アルファだったし。
 B-Tとの交流が特に大きく、藤井が今井寿と意気投合してインダストリアル・ユニット「SCHAFT」を結成したこともあり、ソフバの音楽性が大きく暗黒方面に傾いていく。藤井なくしてソフバなし、に至った作品とも言える。歌モノ至上のファンからはコケにされるが、音楽至上のファンからは絶賛される。再発箱のリミックス処理以外は、だが。
 衣装や路線は延長上にあるが、とうとう藤井がハゲになる。
 
6th『INCUBATE』(1993年)
 転じて、森岡の色が濃い作品。藤井をして「『INCUBATE』というアルバム、というか『PARADE』を作ったのが森岡最大の功績」と言わしめるほど、「ポップ・サイドのソフバ」を凝縮している。しかし『愛と平和』と違うのは、前作の路線とノウハウでもって「暗黒ポップ」をも作り上げていること。総じて、古参ファンからは「初心者はインキュベでも聴いてろ」と言われる。それだけ実はオーディナリーなオススメ盤ということだ。藤井一色の「GENE SETS」などもあるが(とうとう歌なし)。
 遠藤は長髪オールバックで、女性ファンが最も多かった頃。森岡はソロ作発表もあって髪型をアップではなく下ろし、カラーも染めている。ステージでは白いフワフワの変な衣装(いつもヘンか)。ハゲた藤井は眉毛まで剃り始めて別の次元に突入。
 
7th『FORM』(1995年)
 テーマは「統合」。そのため合宿までして作曲し、結果的に解散につながってしまった。でもそのおかげで「YOU」や「PERFECTION」など、今までのソフバになかった解放感に満ちている。音楽的にも森岡・藤井がタッグを組み、遠藤の世界観に理解を示したような「つながった」ものになった。それまでは個々の世界で相反し合うバチバチが魅力だったのが、ようやく「バンド」になった。それは解散を選んだため、振り切れてできたのかもしれない。
 遠藤は長髪を下ろし、アジア風のシャツと革パンというソロ路線を垣間見せる様相に落ち着く。一方で藤井は「眉毛のない長髪+ヒゲ+サングラス」という究極体になり、ステージでは「眉毛なし+ヒゲ+サングラス+ピンク髪+オールバック」にまで進化。やっぱり森岡だけは基本がずっと変わらないなー。ときどき黒髪にはなったけども。
 
8th『SYMBIONT』(2002年)
 7年後の再始動アルバム。それまでのソロ活動を持ち寄った部分も多くあるが、いかにも「ソフバらしい」楽曲と構成を心がけた部分も見える。それこそ全体の楽曲雰囲気や構成は、ほとんど『FORM』に準じている。だからこそ安心して聴けるが、酋長化した遠藤の歌唱とギターも手がける藤井の破壊衝動、それを「変わらない盛岡」が中和した部分も大きい。ソフバの細部を作ったのは藤井だけど、イメージを作ったのは森岡なのだよね、やっぱり。だからこそ人を食ったようなほんわかポップ「メルヘンダイバー」をシングルに選んだこと、カップリングがバリバリのトランス・ミックスだったことに「さすがソフバ」と唸ったものだ。
 遠藤が一気に「ボサボサ長髪+グラサン+ファー付ジャケット」というオラオラ系になっていて古参ファンをビビらせる。長髪+ヒゲの暗黒藤井がますます拍車をかけるが、髪を黒くしてもほとんど変わらない森岡にファンは安堵した。
 
9th『MENOPAUSE』(2003年)
 現時点で、いや、きっとこの先も最新にして最後の作品。遠藤が前作でも見せたラップ要素を強め、藤井の破壊性も増強、そしてやっぱり「変わらない森岡」の中和。きっとこれが最強にして最大のバランスだったに違いない。常に新しい要素を導入して自ら音楽性を複雑にしていったソフバだが、ここではそれが「混沌」と言えるほどゴチャ混ぜ加減になっている。「TWIST OF LOVE」そっくり原点回帰のシングル「BRIGHT MY WAY」や、ソフバ唯一の日本語タイトル曲「土縋り」の枯れた味わいが、それこそ終焉を示しているかのようだ。ついでに言うなら、最後の「U」のバンド・ヴァージョンのような隠しトラックでケリをつけた感じ。
 各人の容姿は前作の延長ながら、ジャケで遠藤はついに上半身裸、藤井はフードで顔を隠し、シルクハットの森岡でやっぱり安心する。
 
 
……と、駆け足で振り返ってみたけれども。
 こうして書き出すと、本当に無茶苦茶なバンドだなぁ。テクノで始まってどんどん生音化し、逆に無機質なインダストリアルを大々的に導入、と思えばラップってあんた。
 というのも、その3要素が実は「3人の要素」なのだよね。ベースがテクノで変わらない森岡、インダストリアル志向の藤井、に挟まれて音楽的意見が弱かったものの再始動後は遠慮しなくなった遠藤。つまり活動を続ければ続けるほどゴチャゴチャになっていったのは、3人の個性がぶつかり合ったからこそ。
 たとえばBUCK-TICKでは音楽は絶対的に今井寿、ときどき控えめに星野英彦、従うのは樋口豊にヤガミトール、すべては「魔王・櫻井敦司」を盛り立てるために……と、完全に指針が固まっている。対してソフバは、みんなワガママなジャイアンだから対立し合って当然なのだ。
 それこそ最初期のテクノ路線は、当時は耳につきやすい森岡の楽曲が中心だったからこそ。もしそのままの路線ではテクノの枠からはみ出すことができず、できても「『NEEDLE』まで」で終わってしまっただろう。過激なテクノ、程度で。しかし続く「ESCAPE」で失敗した藤井が遠慮しなくなってから、メキメキと変わっていった。そのためには人間的な生音と、機械的なサウンドという、相反する「ノイズ」を共存させる必要があった。
 だからこそソフバは、常に有機的に変化していったわけだ。いいぞ、どんどん書いていてワケわかんなくなってきたぞ!
 
 ぶつかり合いから解放され、ほどなく終焉を招いてしまったソフバだが、その7年後に2年間のみ復活。
 しかし復活作『SYMBIONT』ではメンバーが「ソフバらしいアルバムを作ろう」としていたきらいがあり、ソフバらしさの中にも遠慮が見えた。そのためだろうか、うち2曲は(おそらく藤井主導で)次作からのシングルのカップリングとしてノイズやエフェクトを増強したアップデイト・ヴァージョンが発表されている。
 そして最終作となってしまった『MENOPAUSE』が、バンド史上最強の「混沌」。音楽的にも世界観的にもカオスそのもの。だがなぜだろう、そのほうが「ソフバらしい」と感じられるのだ。今にして思えば。
 それはソフバが常に「3人のジャイアンが主張しまくる」バンドであり、そのケンカ寸前のせめぎ合いこそがソフバらしさだったからだ。だから作品の内容やデキ云々より、最後に振り切った『MENOPAUSE』は「気質的にソフバらしい」。
 発売当時、『FORM』を一聴して「なんかソフバっぽくないなぁ」と思った憶えがあるのだが、それってばケンカしてないからだったんだ! あげく「仲良くすると解散」ということもわかった。なるほどー。
 
 それでも「復活ソフバ」は古くからのファンにとって「何か違うもの」だった。
 古参ファンは、ソフバが「音楽性をどんどん壊す」のを知っている。痛いほどに。しかしこの2作は、どんなものを提供されても受け止められるはずのファンにも「んー?」という感慨が強かった。
 というのも、復活ソフバ最大の違和感は「遠藤があまりに有機的すぎる」のだ。無機質に読んでいるはずの朗読さえ、かなり有機的になっている。これはヴォーカルの裏目とでも言うか、今まで「楽曲の添え物」的だった遠藤の歌が、やはり何だかんだ言ってメインなのだと実感された。それが逆に、無機質メインな楽曲の前では多大なる違和感になってしまうのは皮肉な話。
 転じて、藤井は何をしても無機質だけど(ひどいなオイ)、「変わらない森岡」さえ、ステージはともかく音に関しては無機質だ。シンセだし。
 そこに解散ツアーとなってしまった「『FORM』ツアー」で「うなり始めた」遠藤の歌唱が、ソロを飛ばしてソフバに戻ったので違和感があるわけだ。エンズも追っていたファンにとっては受け入れられるが、それでもソフバの名前でこのヴォーカルだと違和感があるというパラドックス。むむむ。
 何せ復活ソフバの最初のステージは、野外フェスの「サマーソニック」だったわけで。そこへタンクトップ姿で肉体派になった遠藤が登場してラップ調の新曲「JIM DOG」を歌い、エンズを通っていない古参ファンを凍てつかせたのはもはや伝説である。
 なぜならソフバは、当初から「いわゆるヴィジュアル系」にカテゴライズされていた。かといってV系人脈とのつながりもほぼ皆無で、仲がいいのはやはりV系のカテゴライズされ気味なBUCK-TICKという、90年代特有の存在だった。ゆえに古参ファンは「美しい容貌でクリアな低音ヴォイスの遠藤くん」にしか興味がなかったはずなのだ。
 それが、オラオラな歌い方をするマッチョなタンクトップになってしまった。その失望感たるや。青春時代を全否定されたような気持だったかもしれない。ねぇ。
 歌唱からして、遠藤がソロ活動を通して「うなり気味」「巻き舌気味」「ラップ気味」という「耽美系好きにとっては苦手な三本柱」に染まってしまったことが、おそらく最大の違和感なのだ。それを発揮した場所がソフバであることが、おそらく問題だったわけだ。
 しかし逆に若い世代にアピールし、純粋に音楽を楽しむ新しいファンを獲得できたのが、実は復活ソフバのすごいところである。むしろ『MILLION MIRRORS』以上の「ふるい」だったのじゃないだろうか。遠藤の酋長化は。
 
 そんなソフバも、先に書いたように以前は「ヴィジュアル系」にカテゴライズされていた。しかしギター・ロックでバンギャルにモテる目的の「いわゆるV系」にテクノは皆無。ゆえに眉なし坊主頭が緻密な音作りをする機械音楽など、明らかに孤高の存在だった。
 そのソフバもビクターに移籍し、多少の交流が広がった。それでも交流していたのも共演したB-TやLUNA SEA、スタジオも手伝ってくれたマッドぐらいじゃないだろうか。中でもB-TとLUNA SEAとで「LSB」なるライヴ・イヴェントも開催し、当時はたいそう盛り上がった。しかし生粋のYOSHIKIっ子だったLUNA SEAとはあまりウマが合わなかったのだろうことも、容易に想像がつく。そのライヴではラルクやイエモンも出演したが、ほとんど話さなかったのが絵に描いたように想像できる。
 デペッシュ・モードさながらの編成のため、常にサポート・メンバーが必要だったソフバだが、中でもドラムの上領亘はGRASS VALLEY出身で、ギターの藤田タカシはDOOM出身。ここらへんの「閉塞性」も実にソフバらしい。イエモンのアニーとかラルクのkenをゲストに迎えることは脳味噌の細胞をフルに使っても1%たりとも想像できない。人脈など遠藤は無関心だっただろうし藤井は必要性で考えるだろうし、森岡なんて誰とでも仲良くなれそうでいてその実そうでもなく、要素としても「飛び道具」なので珍しがられての起用が目立つ。
 しかしその「孤高な閉塞性」こそが、ソフバの音楽性にマッチしていたようにも思える。
 だからこそ、エンズのオラオラ路線に染まった復活ソフバは歌詞と歌唱に違和感を覚え、音が以前のようにスッと入ってこないのではないだろうか。オープンになった遠藤がオラオラしてるから。
 つまり難しいけど「まったく別のバンド」として見たらとっても面白いのだよね。だから新規ファンを獲得できたし、古参ファンにはすぐ容認することができなかったのだろう。間の各人の活動を見ていれば納得はできるものの、やはり「SOFT BALLET」というネームのイメージが、ね。
 それほどに停止前ソフバは前例がない存在で、逆に停止後ソフバは時代が追いついて同時代になってしまっていたのだ。
 
 そして森岡&藤井のminus(-)結成に古参ファンはソフバ再結成の夢を見て、2016年の森岡逝去でその夢は閉じる。
 遠藤と藤井が組んだユニットなど、1%も可能性がないことがわかっているから。
 
 一体「SOFT BALLET」とは何だったのか?
 バンドだけど、バンドでもない。テクノだけど、テクノでもない。さまざまなサウンドと人間模様をこねくりまわした「青春」だったのかもしれない。これは僕にとっても、当時のファンにとっても。そしてもしかしたら、メンバーにとっても。
 メンバーにとって「ソフトバレエ」とは、自分自身に納得をつける旅ではなかっただろうか。藤井が現在につながる音楽性を模索し、納得していく旅。そこに自分を探していた遠藤が合流し、森岡も乗った。だからこそ納得がいかない場合はケンカ寸前で争い、再始動後は全員が遠慮なく活動、そして「ケリをつけて」終了した。
 藤井はそれで、当時は納得がいったのだろうか。常に新しい活動を続け、終了したユニットを再起させるなどもしない藤井からは、ソフバ終了を惜しむ発言は10年以上出ていない。おそらく納得しているのだろう。
 藤井にとっての「ソフトバレエという旅」は終了したのだ。以前は旅が終了していなかった遠藤・森岡とともに。
 
 僕自身、この文章を「自分を納得させるために」書いている。だって期待しちゃうでしょ。「旅の続き」を。
 しかしその可能性は、まずない。遠藤と藤井が組むことは1%も想像できないし、森岡というピース抜きでソフバが成立するとは100%思えない。だからこそ「SOFT BALLET名義の復活」は100%中の100%、あり得ないことはわかっている。
 それでも夢想してしまうのは、なぜなのか?
 その夢想こそが「SOFT BALLETという存在」だからだ。常にファンを裏切って常にそこにいる、それがソフバ。
 そこに存在しなくても、ファンの中には常に存在し、きっとこれからも存在し続ける。
 だってそうじゃない? 不思議と「解散した」とか「もう二度と現れない」って気がしないのだよ。きっと昔からのファンにとっては、特に。藤井が今でも「活動停止状態」と言い張る気がわかるような。
 たとえ森岡がいなくても、たとえ遠藤が所在不明でも。残る藤井が独自の路線を歩んでも、どうしてもそこにソフバの幻影を重ねてしまう。それが藤井に対して失礼だとわかっていながらも。
 それでいいんじゃないか、と思う。
 人間は、その存在を記憶から忘れられたとき「本当の死」を迎えるという。それと同じように、記憶している時点でソフバはまだ存在している。重ねるのは失礼だと言ったものの、藤井が表立って活動してくれていれば、きっとソフバの記憶は失われることはない。永遠に。
 ソフバのような特異な存在は、よくある「音楽史に名を残す」という表現は使えない。ビートルズじゃないんだから、その名前がひろく記憶に残るなんてことは期待しない。
 だからこそファンは、ソフバを愛し続けてあげることがソフバのためじゃないだろうか。青春時代を過ごした音楽と、そのキャラクターへの感謝を込めて。
 ソフバを生かし続けることができるのは、メンバーではない。ファンにしかできないことなのだから。
 
「いつも心にソフトバレエ。」
 
 最後にこれを合言葉に掲げ、この文章を閉じることにする。
 わかったような、わからないような。それもソフバらしくていいか。

 ちなみに、各人もコレもトップ画に持ってきたのは「自分の中での最高傑作」である。遠藤と藤井が「1曲」の存在感が強いシングルなのに対し、森岡がアルバムであるのも感慨深い。個人的にだが。
 そしてこの画像のソフバ本、何回読んだかわからないぐらい面白いのよ。Amazonで驚愕のお値段になってたけども。

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