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SION『螢』より「トタン屋根の小屋に住む老人」

 バスが三時間に一本という、とある辺鄙な田舎町。そこからまた随分と離れた、殆ど山麓に近い場所に、白髭の老人は住んでいた。
 いつから彼がいたのかは、誰も知らない。気が付いた頃には、老人は小さな小屋を建てていた。建材は近くの倒産したスクラップ工場から持ち込んだトタンやベニヤの類だった。その小屋の体裁や、白髭を蓄えた老人の風貌から、近隣の住人は彼を一種の浮浪者だと風潮した。
 老人は、焦げ茶色の犬を飼っていた。飼っていたというよりも、犬の方が懐いてそこに居座ったという方が正しいかも知れない。犬はしばらく小屋のトタンの軒下で寝ていたが、そこからも退避しないといけないほどの強い雨が降った翌日から、老人の手によって木製の犬小屋が与えられた。それから犬はそこに住むようになり、鎖もないのに、そこから離れることがなかった。
「あんたもしっかり勉強しないと、あんなふうになってしまうよ」
 近所の母親は老人と犬とを珍しがって眺める子供達を、そう言って家に帰した。
 老人は小屋があるだけの浮浪者と形容され、近隣住民の多くからは疎ましがられた。親の言葉を真に受けた子供らが「うわっ、臭ぇ」「汚ねぇ、汚ねぇ」と罵倒しても、老人はまったく意に介せず、小さな畑を耕していた。
 そのかたわらでは、焦げ茶色の犬がペロリと髭を舐めていた。しかし老人はしかめっ面のまま、クワを動かしていた。

 老人に接近しようとする者は、少しだがいた。
 親の価値観を刷り込まれていない無垢な子供や、同情のような気分で話しかける近隣住民がそれだ。しかし老人は、誰に何と言われようと、何を訊かれようと、答えようとはしなかった。黙ってクワを振り続けるばかりだった。近所では「どんな人間もしつこさで説得する」として迷惑で有名な新興宗教の勧誘人も老人のもとを訪れたが、完全無視どころか無言で睨まれ、退散するほかなかった。
 それから老人は「もしかしたらすごい人だったのかもしれない」と一目を置かれるようになった。それでも誰とも交流せず、あいかわらず自分の食い扶持だけを育てていた。
 そのかたわらでは相変わらず、焦げ茶色の犬が髭を舐めてポカンとした表情を浮かべていた。それか、老人の栽培するキャベツに群がる蝶々を追ってはしゃいでいた。つかず離れずヨタヨタと遊ぶ犬は、どうやら片目が見えないらしい。蝶を追う足取りもおぼつかなく、随分とずれた方向に跳ぶこともある。
 けれども、犬は子供達にも懐いた。動物が自分を慕う様が嬉しいのか、子供達はクワを振り続ける老人を尻目に犬とじゃれ合ったりしたが、老人は何も言わなかった。こいつメクラじゃねえの、と罵声を浴びせる子供がいても、老人は微動だにしなかった。
 ただ一度だけ、
 子供らが犬に「ギャン!」という叫び声を上げさせるほどの悪戯をした際には、土を耕していたクワを持ち替え、子供らに迫ってきた。
 逃げ出した子供らはそれから近付かなくなったが、そうでない子供らはその後も、なぜかそこが好きで遊びにいっていた。

「まったく、あんな人が近所にいると気持悪いよ」
 近所の主婦連の評判は、非常に悪かった。
 子供が老人のもとへ遊びにいった形跡があると、すぐに「もう行っちゃ駄目だよ」と口を尖らせる。
 子供らはそんな忠告をする母親も、何を言っても答えない白髭の老人も怖かったが、そこがなぜか好きだった。だからほぼ毎日、学校帰りに老人の小屋へ寄るのが風習にさえなっていた。
 しかし、子供らには気付けなかったのだろう。
 隻眼の犬が、次第に衰弱していくのを。

「あの犬、とうとう死んだらしいわよ」
 主婦連の間で、噂が飛び交った。
「どうですかねぇ。あの爺さん、狂っているからね」
「本当に、どっかへ行ってほしいわよ」
「気味が悪いし、子供はまだ解らないから」
「心配で」
「ねぇ、心配で」
 しかしその主婦連の噂話をよそに、毎日のように老人の小屋へ遊びにいっていた子供らは、白髭の老人が小屋のそばの赤土を耕すように穴を掘り、そこに犬を寝かせているのを見た。
 犬はまるで、静かに、眠っているようだった。
 老人はそのまま、しばらく動かなかった。
 そして長い間じっと座り込んだ後、手でゆっくりと土をかけていたのを、子供らは見ていた。
 手を合わせることもなく、ただ、老人はしかめっ面のまま、相変わらず無言で、しかしゆっくりと土を放っていた。

 それから、
 間もなく老人は、小屋を引き払い、どこかへ去っていった。

 あの頃、焦げ茶色の犬と遊んでいた私は、ふと思う。
 老人は、変わり者だったのだろうか?
 汚いと罵倒されるような人物だったのだろうか?
 気味が悪いとばかり言われる筋合はあったのか?
 それとも、
 彼が、それなりに幸福そうだったから、羨ましく見えたのだろうか。
 故郷を離れた私は、犬を飼い始め、そう思った。

 それから間もなく、死亡記事を告げる新聞により、私はその老人が世を捨てて田舎に身を寄せた作家だったと知った。
 彼を追い出した田舎という環境を、私は心から、恥ずかしく感じた。

 私の飼っている犬は、元来毛が白かったはずだが、なぜだろう最近、どんどん焦げ茶色に染まってきている。

(了)

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