ラトビアそしてJALカードありがとう
4月も下旬、私の左腕の痛みはまだあるが、1ヶ月前から週に2回通院しながら絶賛リハビリ中だ。リハビリついでに今はもう料理関係のイベントの仕事は全部こなしている。動かないと二度と戻らなくなるという恐ろしいことを言われているから必死だ。
気持ちはラトビアを離れてからも今もずっと変わらない。
「ラトビアそしてJALカードありがとう」
(ちなみにJALさんからお金をいただいている記事ではない)
これに至った経緯が長い。暇でどこかで待たされている時か、実際に海外で怪我をして病院の世話になることがある人に読んでもらうことをおすすめしたい。あわよくば、JALカードさんにも読んでもらえる機会がほしい。
「海外(特にバルト三国)」で「ひとり」で「重傷」「重病」になった時に絶対に役立つ内容だと保証しよう。
冬を見にバルト三国へ
1月末から2月末まで冬のバルト三国に行くことに決めたのはバルト三国の人々が暗く寒い冬に、楽しさや嬉しさをどう見つけているか知りたかったからだ。
1月末に、ラトビアのリガから入り、エストニアで取材をこなし、リトアニアで行われている祭りに参加し、ラトビアでトレッキングを体験し、その後オランダのアムステルダムとイタリアのローマに行く予定だった。
ラトビアの森へ
バルト三国内最後の予定としてリガから出発するトレッキングツアーに参加した。このツアーは以前もエストニアのナイッサール島でのトレッキングキャンプ(この時の様子については拙著『バルト三国のキッチンから』にある)を企画されたラトビアのアウトドア専門ツアー会社が開催していた。今回は全部で20人参加するそう。早朝に大きなチャーターのバスに乗りツアー一行はラトビアの東北地方ツェーシス近くから出発する。
ラトビアの最北端から最南端までの最長の距離を直線で歩くイベントで、何回かに分けて歩く。参加した日程はこの企画の2回目で前回歩き終えた場所から南に向かって出発する。2月17日と18日の土日におよそ54キロを歩く予定だった。
気温はマイナスかプラスの間位で、時折小雨が降るどんよりとした天気だった。直線距離を歩くため、当然、道なき道を歩く場合もあるので、装備はアウトドアが基本だ。
雪が覆っている森の中を歩いたり、雪の下に沼のような水たまりがあり、2時間ほどするとトレッキングシューズの中に水が入ってしまっていた。私もスノーブーツとトレッキングシューズそして様々な気温に対応できるように、服を何枚かバックパックの中に持っていた。持ち物はできるだけ軽く、食べ物も夕方までの軽食を持っていた。
森の中を歩く。ラトビアは平らで、登り下りの苦労はそれほどないが、雪が積もっている場所は体力を消耗させるのでできるだけトレースがついた場所を歩き続けた。20人の参加者は体力もあり、それぞれ工夫していた。
ラトビアの森はどこかに妖精が出てきそうだ。濃い緑の針葉樹林と白い幹白樺の木に目を奪われてしまうほど美しい。
夏の森は、ベリーやキノコが様々な森の恵みが私たちの目と舌を楽しませてくれる。冬はこれらの代わりに静寂や澄んだ空気、晴れた日は針葉樹林の深緑と青い空とのコントラストが心を浄化してくれるようだ。
幾度か休憩するが5分ほど動かないと体温は下がり、動き出す前には手と足がかじかむ。体温調節との戦いだった。
冬の罠
10キロほど歩くと森の中で凍結した地面の上に足を踏み入れた。前の人は少し滑って体勢をギリギリ持ち直していたので、気をつけなくてはと思っていた。その場所に足を踏み入れると前の人以上に滑ってしまい、バランスを取るために広げた左腕を転倒した拍子に凍った地面に打ち付けてしまった。
転んだ瞬間、左腕が尋常ではないと分かり骨を折ったとすぐに感じた。しばし仰向けで倒れたままだった。
木々の間から空が目に入った。仕事で迷惑をかける人の顔がすぐに浮かんで「参ったなぁ」と空に文字が見えたような気がした。
森でアクシデントにみまわれると
周りの参加者が心配して、声をかけてくれるも自力では立てず、皆に手伝ってもらいながらようやく起き上がった。痛すぎて軽く吐き気がした。左腕が恐ろしいほど痛く上腕か前腕か肘のどこを折ったか皆目見当がつかない。
森の中にいても車が入ってこれる場所ではないから、歩いて車道に行かねばならない。
参加者がスカーフを対角に折って結んで三角巾を作ってくれ、腕を通した。不思議なことにガムテープを持っている参加者がいた。左手を触られると叫ぶほど痛いので、ガムテープを断ったが躊躇なく三角巾の上から体と腕を固定させた。そして痛み止めを飲ませてもらった。
パスポートがあるかを聞かれたが、ショックだったのだろう。どのバックに入っているか何度となく考えるもまったく思い出せなかった。歩いているうちに、動かせない手が冷たくなり、グローブをつけることができないほど手が腫れてきた。かしてもらったピンクの可愛いミトンをつけて凍傷を防いだ。これ以上滑らないようにストックを貸してくれたり、バックパックを背負ってくれたり、アイゼンを靴につけてくれるなどした。
病院に行くには車が入ることができる道までなんとしてでも自分の足で行かねばならず、とにかく歩いた。ただ、森の中で左腕に触る枯れ枝や時折吹く風が悲鳴を上げるほど痛みが増した。道中私の叫び声を聞いて怖かったと思う。
これを読んだ皆様は気づいているとは思うが、1人で森に入っていたとしたら、森からどれくらいの時間で病院に向かうことができたか、想像するだけでも恐ろしい。
ツアーに参加してよかったこと
ツアーに同行している主催者は、以前取材でお世話になったMartinsさん。
彼は今回歩く事なく一行が泊まる宿で夕食の準備等していた。今回歩くのは、もう1人のツアーのガイドさんだ。彼がMartinsさんと連絡を取り合ってGPSで正確な位置情報を送り、その地点から最も近い車道を目指した。途中まで参加者も一緒に歩いたが、後の予定に影響があるので、目指す方向だけガイドさんに教えてもらって森の中に入っていった。
痛すぎて「あと車道までどれくらいですか」と何度もガイドさんに確認したことを覚えている。
ガイドさんと私はMartinsさんが迎える車に落ち合うため、轍がある道を歩いた。骨折した状況で車までおよそ2キロ。左腕を負った私には永遠のような長さだった。Martinsさんは宿の主人に車を急遽借り、私を病院に運ぶためわざわざ迎えに来てくれた。
いつも彼らがトレッキングをするときは、GPSや衛星電話やスマートフォンの位置情報を使い迷うことなく参加者の安全を考えたアウトドアツアーを開催している。この安全対策を知っていたから、病院までの道に関して、不安になることがなく、自分自身の怪我に耐え得るかだけを考えMartinsさんが迎えてくれる車に乗った。
やはりプロである彼らのツアーに参加して私は命拾いした。仮に1人なら森から無事に出ているかどうか怪しい。激しい痛みの中、冷静に電波の弱い森で自分の位置を誰かに伝える必要がある。さまざまな電子機器を持っていなければ最短距離で行けるはずもなく、ラトビア語もわからないので今回の場合は凍死案件だ。緊急事態に功を奏すのは日ごろの危機管理だと痛感した。
病院へたどり着く
Martinsさんの車に乗り込み、サポーターさんはツアー一行に再び合流するため、颯爽と元の道を戻っていった。ありがとうガイドさん、輝いて見えたよ。
近い総合病院をリサーチしてくれていた。土曜日なので受け入れられるか不明だが、確認するためにその病院を目指した。車でおよそ30分。救急対応の総合病院の駐車場に到着した。私はシートベルトすら自分でつけられるような状態ではなく、歩けるかも怪しいので、Martinsさんはひとりで受付に向かった。診察可能だったので私の介保をしながら病院の緊急の受付に連れて行った。
ここで、森で思い出せなかったパスポートの場所をふと思い出した。
Martinsさんは引き続きツアーのサポートとして宿に向かった。
ラトビア北部Varmielaにある病院
緊急外来の診察が始まるのを車椅子に座り30分ほど待っていただろうか。
診察開始。着ていた服は脱ぐことができないため切ることになり一枚は、肌触りが気に入らないクールネックの登山用のシャツだったので、切られても惜しくはなかった。だがその下に来ていたのは、ミレーというブランドの汗がべっとり張り付かない網のようなシャツだった。結構高めで夏のアウトドアアイテムとしてはお気に入りだったので惜しいなと思った。
が、それは10%で残り90%は「どうでもいいので痛くないようにしてください」という気持ちだった。
左手を時折看護師に触られるが、都度叫ぶと「静かにしなさい」と怒られた。口を塞いでできるだけ声が出ないように我慢した。大人もやればできる。レントゲンを撮りに別室に行き、当直医に診てもらうと即座に入院決定そして手術が必要と告げられた。当日休みの専門医にレントゲン画像をスマホで送り、入院が必要かどうかを即座に判断してもらっていた。
症状は詳しく教えられず、月曜日に説明すると言われた。
当直医から日本で手術をするか、ラトビアで手術をするかの希望を確認された。ひどい痛みに日本まで我慢できるとは到底考えられない。「ラトビアで手術したい」と即答した。当直医は次の質問へと移った。
「海外旅行保険に加入しているか」
医療費と入院費の概算を聞き、カード付帯されている保険を確認し、その金額の保険が使えるはずなので、手術して入院させてほしいと答えた。
「痛い、痛い」と騒ぐので鎮静と鎮痛剤を看護師にささっと注射され、C Tを撮りに車椅子で移動した。決定事項をMartinsさんに告げ、荷物全てを病院に運んでもらうことになった。
1軒目の病院で診察入院手術を引き受けてくれるのは不幸中の幸いだった。入院生活が始まった。
病院の部屋
病院の相部屋は3人で各部屋にトイレとシャワーと洗面台がある。ベッドの間の仕切りは日本のようにきっちりと一人ひとりのプライバシーに配慮した形ではない。しかし、ベッドの間はおよそ1メートル以上あいていたので、圧迫感を感じる事がなく過ごしやすい環境だ。
支払い能力証明ができない
何度も「費用は払えるか」と医師や看護師から確認されるので海外旅行保険に入っている旨を話し、証書を見せ納得してもらっていると思っていた。が、その後も医師は費用について5回ほど確認した。
通常の支払いの流れはこうだ
1.病院が患者に請求
2.退院時に患者が病院に払う
3.患者が帰国後保険会社に保険金請求
4.保険金が支払われる
私に支払い能力がないかもしれないと心配している。ラトビアに銀行口座もなく、親戚もいない。病院が心配するのも無理はない。
病院の口座に振り込むには、日本の家族または私から銀行振込(wiseという格安で送金してくれるサービスはある)をしなくてはならない。退院日まで私が払えるか確証がないのだ。
保険に入っているだけでは治療はしたくないのが病院の本音だ。
ラトビアに3日だけ滞在する予定だったので最安のSIMカードでも足りる予想だった。それ以上の滞在が確実となったいま、SIMチャージが可能なコンビニまで病院から2キロ。チャージも不可能に近い。
限られたパケット残量で海外保険情報サイトを熟読し、ダイレクト決済という仕組みがあると知る。ダイレクト決済とは被保険者が支払いをせず、保険会社から直接病院に支払う決済。この決済をすることが可能かを保険会社に確認してみた。ここがダイレクト決済対応の病院であることを知らせてくれ、病院側に連絡をしてくれた。それ以降支払いに関して聞かれる事はなくなった。保険会社から払われる方が個人からより確実に費用を回収でき病院にとって安心だ。
手術
土曜日夕方に入院し、簡易的なギプス装着をして手術を待つ。日曜まで借りたパジャマを着ていたが、もしかすると月曜に手術があるかもと言われ、月曜の朝から手術着とおむつを履いて過ごした。
月曜日は「予定は無い」と回診時に医者から言われ「火曜日か水曜日かも」と言われたが、火曜日の回診でも「今日ではない」と言われた。おむつを取り替えるのも忘れるほどショックで、それに気づいた看護師におむつを履き替えさせられた。
手術の日は水と食べ物は口にすることを禁じられている。月曜日から朝は何も口にせず待っていたが、手術がないとわかると朝食が出てきた。水曜日朝に朝食が出なかった。確実に手術が決まったと理解した。3枚目の新しいオムツに履き替えた。手術は午前11時の予定だと知らせてもらった。
手術前の準備は普段寝ているベッドで行う。手術室まで普段のベッドにいる。エレベーターでベッドごと運ばれ、別の階の麻酔室へ移動する。
手術室の隣にある麻酔室で首元に2本麻酔注射をされ、腕に感覚がなくなったと確認後手術台へ運ばれる。
「腕に感覚なくなったかな」と確認されるも、私も緊張しているから完全になくなったのかもしれないし、もしくは感覚がなくなったと思いきや、実は感覚があるかもしれない。痛いまま切られるのではないかと考えると震えた。3回ほど確かめてから「麻痺した」と答えた。怖すぎる。全部英語なので、麻酔についての患者の同意や説明も手術前に確実に理解していなければならないのと、小難しい質問をされたら困るので必死だ。
麻酔の処置が完了するとベットから手術用のベッドに横移動する。青いタイルの手術室にありがちなひんやりとした部屋には回診に来てくれていた執刀医(通称イケメン医師)ともう1人の医師(年配)がおり、看護師は3人、麻酔医が2人麻酔担当のアシスタントが2人いた。
精神安定剤のような点滴を右腕から入れるはずが、別の点滴で使われ針が既に刺さっていたので静脈が右腕の他の場所では見つからず6回ほどブスブスされるも失敗し、最後は左足甲から精神安定剤の点滴を入れた。だんだんアシスタントと麻酔医が焦っているのが分かり「大丈夫?」と聞いてみたりして自分の緊張を紛らわした。
直角に曲げた左腕を手術代に固定して睡眠剤が出てくるマスクを口につけられた。その後記憶はなくなったが、次に気づいた時はまだ手術中だった。麻酔医が目に入ったたので「寝かせてほしい」と2度お願いし、またマスクをつけてもらったが、結局意識のあるまま手術が終わった。おそらく最後の30分ぐらいは起きていたような気がする。腕をトンカチのようなもので、カンカン叩いている振動がわかり、奇妙な感じがした。
病室に戻ると時計は午後3時だった。4時間かかったということだ。同室の手術をしてきた人たちよりも、2倍の長さだったので他の人よりは重症だとわかった。切開の長さは自分史上最長の25センチだった。
隣の肩骨折ねぇさんは私の傷跡を見て「クロコダイルぅ」と呟いた。いわゆる高級ワニ革カバンの縫い目だと言うことらしい。
患者コミュニティ
手術をしたその後からすぐに歩けた。フロア内の廊下を行ったり来たり無駄に散歩した。当日は麻酔も効いて特に痛む事はなかった。ずっと髪の毛を洗うことができなかったので、看護師に洗っていいかと聞くと今日ではなく明日だと言われた。
6日目の髪の毛はベッタリとして、水がなくてもさっぱりする洗髪剤のような便利アイテムはない。
毎日ちゃんと食べていた朝ごはんだが、食が進まない。昼ごはんも食が進まない。
同室のおばちゃまたちの皿も、かなり残っている。
「おいしくないんだな」疑いが確信に変わった。手術前は気持ちに余裕がなく味もわからなかったのだろう。入院ご飯の味がわかるようになったということは、だいぶ元気になってきたということかもしれない。
誰も見舞いが来ない私を不憫に思ってくれ、彼らの親戚が来るとりんごやバナナなど食べ物を恵んでくれた。
ある日はフリーズドライのいちごをチョコでコーティングした高級なお菓子をくれ、某北海道銘菓のお菓子にそっくりだった。「沁みるわー」そう思いながら、唯一使える足を使い何かできることをしたいと思った。
目指すは階下の病院内のカフェテリア。なぜならば、そこには惣菜や菓子パンが並んでした。
惣菜パンを3つ購入し、同室のおばちゃまにひとつ、肩骨折ねぇさんにひとつずつ戦利品を渡した。
「うめえ!」
三人とも叫び、パンのうまさがスイッチとなり2人は食べ物について熱く語っていた。肩骨折ねぇさんは英語は話せないが、Google 翻訳を駆使し私と交流しようとしてくれた。自身の家族や息子さんの話などたくさんした。私はその後Martinsさんのサポートにより、使い放題契約に切り替えられたために術後はネット検索し放題となり、ラトビア語に変換して会話を楽しんだ。
「よかったなぁ、病院メシの味がわかるくらいまで元気になったということだ」とホッとしながら眠りについた。
だが、手術の翌日からが地獄だった。痛すぎて痛み止めの飲み薬はレベルアップをしたが、それでもダメだった。足の甲に手術時に刺した場所に鎮痛剤を入れた。痛みは手術後2日間はきつかった。肩骨折ねぇさんは、手術の後1日目私ほどは痛がらずにその翌日には退院した。
「回復したら夏にまたラトビアに行くからその時は日本料理作るね」と彼女を見送った。
手術前の回診で2月26日(入院8日目)に退院したいと話すと、主治医は「そんなにいられるわけない」と一喝された。
実は26日にラトビアの首都リガ空港近くのホテルを予約しており、翌日のリガ発ポーランド経由成田行きで帰国する計画だった。26日よりも前に退院する場合はホテルを追加予約するか、別のホテルに滞在する必要がある。しかしこの身体で病院以外に滞在することに自信がなかった。
Martinsさんはリガから2時間かかるこの病院に迎えにきてくれるという。ただし26日がベストだそう。Boltという配車アプリで病院からリガまで検索すると100ユーロ以内で移動できるので、わざわざ彼に往復4時間の道のりを移動させる必要はない。断ったのだが責任感の強さだろう「迎えに行かせてくれ」と言ってくれた。
人情味のあるやり取りはありがたく感じ、断るのは野暮というものだ。26日に合わせることにした。
手術の翌日執刀医の回診では「26か27日に退院かな」と言うのでちょうど良いタイミングと喜んだ。
執刀医に「手術前は、26日までいられるわけないだろって言いましたよね。私の腕ひどかったんですよね」と言うと「いやいや」と濁して去った。
退院
問題は会計だった。看護師が「あなたの支払いが終わってから退院だから、支払いしてきて」と言うのだ。
ダイレクト決済にしたと言っても「私は会計ではないからわからん」の一点張りだった。保険会社にダイレクト決済をお願いした意味もなくなる。焦り出した頃Martinsさんが迎えにきてくれ、会計部門にできるだけ早くに会計処理をするように依頼してくれた。病院を出るまでに病室と会計の場所を2往復した。ラトビア語でやりとりしたから意味が通じ、保険会社が1ヶ月後に病院の指定口座に入金するということで無事解放された。
「ラトビアの病院は普通でも面倒な手続きが多いから、リガ(首都)の病院の支払いは長蛇の列だよ」と混乱を予期していたかのような話ぶりだった。
結局日本に戻るまで、肘が折れていることと前腕か上腕が折れていることくらいしか理解できなかった。
帰国
帰国はラトビアのリガ空港からポーランドのワルシャワ経由で成田に到着する便だ。セキュリティーチェックで、腕に入れたプレート2枚とボルト15本が反応するかもしれないので診察書類を見せられるよう準備していた。しかしアラームは鳴ることなく、職員もチェックをしなかった。飛行機の気圧の変化で途中非常に腫れて痛かったので、持っていた痛み止めを日本に着くまでにほとんど飲んでしまっていた。
日本の病院
帰国翌日に最寄の整形外科クリニックに電話すると、診察してくれるとのこと。ラトビアで渡されたCTデータのリンクとパスワードが書かれた書類と診断書を携えて向かった。
そこではCTデータは特に確認せず、クリニックで撮ったレントゲンを見ていた。診察室に呼ばれると「肘の骨折の中でも一番ひどい骨折の状況ですから」と言うではないか。
「肘は粉砕骨折、上腕も骨折しています」折れたのは上腕だと初めて分かった。「前腕のスーッと黒い線は手術の都合で前腕を切っています、この手術をしろと言われたら、嫌になってしまうくらい大変な外科手術ですよ」そう話してくれた。
話は逸れたが、骨折以外に故意に骨を切っただと?
「成功した手術だと言えます」この言葉を聞いて、ラトビアの執刀医に心から感謝した。
「プレートは骨が完全に繋がってから出しますよ」と。
「あれ、ラトビアでは入れたままで良いと言われたんですが、出さないとダメですか」と聞くと「出したほうがいいですけどね」と手術後すぐの私に出すことを話すのは時期尚早と判断されたか「その時になったら決めましょ」と言われた。が、翌月の診察時に速攻で「1年から1年半後に出しますから」とキッパリ言われた。
ありがとうラトビア
Varmielaと言う北部の街で9日間もラトビア語がわからない日本人が入院した。どの看護師も医師も優しく明るく接してくれた。同室の人たちも、理解できない私のためになんとか伝えようとスマートフォンを駆使して英語で教えてくれ、密輸品(見舞客が持ってきた食べ物)を恵んでくれた。
骨を折ったその時応急措置をしてくれた二人の女性は実は医療関係者だと後々分かった。彼女たちのおかげで、ベストな形で固定されて病院に運ばれた。主催のMartinsさんは車を出してくれ私を病院やリガまで運んでくれた。ここには書ききれないほど多くの手や善意で助けられた。
必ず腕を元に戻して、ラトビアにお礼を伝えに行く。
ありがとうJALカード
JALカードを約20年使っているが、2年前エストニアの森で池に沈み一眼レフを水没させた。レンズは故障し現地購入し本体は修理に出した。全額保証されないが一部お金が戻ってきた。
JALカード(Club-A)を使って毎回海外に行くときにはいつも「英語版の海外旅行保険の加入を証明する書面(付保証明書)」を印刷し携帯する。
今回病院でも有効だった。病院側に保険に入っていると目でわかる大きな材料だ。ダイレクト決済の相談をしたときには東京海上日動の提携保険会社のプレデンシャル保険のイギリスにいるスタッフが現地病院とやりとりをしてくれた。お金の心配をしていては治療どころではなかったろう。
9日間の入院で、手術費、治療費およそ3,000ユーロ(全額負担)だった。日本円では約50万円。
ヨーロッパの中では安いと思う。JALカードのClub-Aは怪我や疾病の場合それぞれ150万円がその上限だ。
ラトビアはこの金額で全部カバーできた。医療費は退院したときに買った痛み止めの薬と湿布のような塗り薬、腕を固定するサポーターを別に払った。これも申請すれば保険会社からほとんど支払われる可能性が高い。
怪我をした日から180日は帰国後発生した医療費も保険を申請すれば支払われる。国内の場合は3割負担した分が払われる。JALカードを持っていてよかった。本気でそう思う。
注意:他国の場合は金額はこの金額で全額カバーできるかどうかわからない。アメリカやスイスなど医療費や物価が高い国の場合は足が出たかもしれない。
そんな私が3ヶ月旅した珍道中バルト三国エッセイはこちらで販売中です!!
追記 「カード付帯保険に補足するべき保険」
というnoteも合わせてどうぞ。
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