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ナラティヴの洪水、暴力の終着

①でも、日々交わされる会話のロジックとかも、何かを構築しながら拡散するよりは寧ろ何処かに収斂されていくようなイメージしか持てなくて、何となく遣る瀬ない気分になっています。いや…というか、自分の思考の出典を紐解くというのはそもそもが不可能なことなのかな。
②という考え方は“過剰と退屈”的かもしれないし、他者の中に見出だすのは他でもない自分自身だという文脈に沿うなら、発見とは自己の思考に言葉を付ける作業に他ならない…アンビバレントで終局が見えない議論はラビだっけ、言葉遊びにならないような架橋が出来ていたらそれも良いのかな。
③悪いものなんて何もないという言葉をよく耳にする。それは相対主義的な文脈がそうさせているのか、それとも、悪の根源は自分自身的なメランコリー親和型的な思考なのかな、よくわからないけど、概ね賛成。物事は容していく姿勢を持っていた方が負担が少ない気がしています。
④そういう文脈から、昨年末脳梗塞を患って以来不自由になった体の祖父が介護施設をたらい回しにされていることを思う。何も悪くないとしたら、それは文字通り遣る瀬が無いことになる。鬱積した気持ちを捌く手段がわからないままで、それを忘れてしまうことが良いのかどうかも私はわからない。
⑤断続する現象を切り取ったものとしての「経験」は、それを踏み越えて行くためにあって、膨大な警句と個々人のナラティヴの洪水に倦んでしまったとしても、取り零しのないように掬い上げて吟味して構築した地図を元に、断続の中にまた戻れば良いかな、と思っています。

01/06.11 @clairminnows

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