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反転する舞台装置(トッド・フィリップス『ジョーカー』感想)

10/4、実姉はバリでリゾート地を観光している傍、9/30をもって失業者になった私は、本日届いた会社の書類を持って区役所に向かい、悩んだ挙句その帰りに『ジョーカー』を観ることに決めた。

筋金入りのファンというわけではではないが、原作の『Long Halloween』と『Killing Joke』を読んでいる身として、今作について感想を書こうと思う。

・・が、かなり突然のネタバレを含むので、見たくない場合は迂回して欲しい。

それと、できるだけ口語に近い形に崩し、かつできるだけ学術的な出展は控えているが、私はもともとハイブロウな文章が好きな(感じの悪い)タイプなので、堅苦しい物言いが苦手な方も迂回していただきたい。

1.「悪」の悪たる理由

そもそも、悪役が悪役である「理由」が存在してしまうことにより、そのものの「悪」は相対化されるものなのだろうか?

そもそもの話だが、私はこの作品を見たい反面、見たくない気持ちがあり、ぎりぎりのところで迷っていた。

この作品における「悪」の正当な理由を、スピンオフ作品として描く意味とは何なのか?ーつまり、『ジョーカー』において、ジョーカーの正気が損なわれて行く過程を果たして描く意味があるのだろうか?

「このものの悪には理由がある(=ので、そうせざるを得なかった)」と納得してしまうようなバックグラウンドを、
ヴィラン(敵役)に当てることについては、多分良し悪しもあるとは思うが、バットマンのヴィランには、ほとんどそうなるべき理由があり、「悪」役になっている。勝手に存在する「悪」はほとんど存在しない。

確かに、バットマンのヴィランは魅力的である。だが、個人的には理由があっても違法行為は正当化されるべきではないと私は考える。

ー私の中では「悪役を格好良く描き過ぎてしまった(ので、後の作品では悪役に言葉を持たせなかった)」と仰せだった荒木飛呂彦先生の言葉を強く思い出された。

荒木先生が言いたかったのはつまり「悪役を美化してしまう」ことについての懸念であったが、今作でも(あるいは過去の作品『ダークナイト』でも)、基本的には「ジョーカー」はただの犯罪者ではなく、大量殺人者として存在する。

そのように存在する「悪」に理由を付けてしまうと、つまり「悪(そのもの)」が「アイコン」化されてしまうと、悪というもの、そのものの「誤り」については一度考慮されなくなるー荒木飛呂彦先生の『ジョジョの奇妙な冒険』では、「吉良吉影」は殺人犯であるが人気のキャラクターであるーつまり、殺人犯のもとで被害を受けたはずの誰かの人生はそこにおいて考慮されておらず、阻害されている、ということを指す。

まあ、フィクションにそういった禅問答を追加してしまうとストーリーが始まらないのもわかるが、そもそも、今までの「バットマン」シリーズでは、「ジョーカー」というものは「理解不能な悪」としてミステリアスな存在として描かれている。(※例外的に、『Killing Joke』というような内省的な漫画も存在するが)

何故このタイミングでジョーカーにスポットを当てた作品が作られるのか?というのは私にとっては疑問だった。

そしてそれはある種のフラグとして映画を鑑賞後に回収される。

2.「違うセカイの出来事」

改めて思うと、同じくジョーカーに大きくスポットを当てた『ダークナイト』は、ジョーカーというヴィランのもつどす黒く深い闇を描きつつも、
バットマンにスポットを当てながら娯楽アクション映画として上手く纏っていたと感じ、相対的に私の中での(作品としての)評価が上がった。

今回の作品には「バットマン」は出てこない。「ジョーカー」という「記号」は厳密な意味では存在していない状態である。また、過去の作品にあったようなバットマンの登場人物も、ほとんど出てこない。どころか、初めて出てくるキャラクターが大半を占めている。

舞台設定以外にシリーズとの関連性を匂わせる描写はたくさんあり、何が起きているのかはわからないが、確かにそこに自分の知っているゴッサムシティが存在する、という気がする程度には、オリジナルに近いシナリオになっているので、なまじ原作を知っている状態でも「この先はどうなるのか?」という緊張感をもって見ることができた。

(※今作でかの有名な「アーカム・アサイラム」は「ゴッサムシティ病院」のような名前の病院に変わっていたと思うが、ぬるいファンなのでもしかすると過去はそうだったなどの設定を取りこぼしているかもしれない)

改めて思うと、同じくジョーカーに大きくスポットを当てた『ダークナイト』は、ジョーカーというヴィランのもつどす黒く深い闇を描きつつも、
バットマンにスポットを当てながら娯楽アクション映画として上手く纏っていたと感じ、相対的に私の中での(作品としての)評価が上がった。

それは余談として、漫画『Killing Joke』が「ジョーカーとバットマンの”ある種運命的な関係性”」を紐解くためにジョーカーの過去の描写をされたのと同じように、

私の知っている「ジョーカー」は”母親と二人暮らし”ではなかったが、貧困で仕事がなく、(仕事をクビになるなどして)生活が上手くいっていない不器用な人間で、あるきっかけで「ジョーカー」として覚醒して行く・・というように、本作のところどころに原作とのつながりがあり、

同じ人物が少し違う次元で生きているパラレル・ワールドを覗いているような感覚に陥ったが、最後にバットマンの正史と重なる場面が回収されていて、最後の最後でなるほどこれは「バットマン」シリーズのものなのだ、とわかるようになっていたと思う。

ここで思い出されたのは、「正義は悪に対置される」といった『ダークナイト』のジョーカーのセリフであった。

前提として、「バットマン」シリーズの舞台となった「ゴッサム・シティ」は、警察が(悪と癒着して)機能しておらず、貧富の差が激しいスラム街のような側面を持っている描写がしばしばある。

もともと、そのようなバックグラウンドがあるなかで「ブルース・ウェイン」というゴッサム・シティの中でも有数の富裕層の「フィルター」を通して見るのが「バットマン」のシリーズだったと思うが、

どこか浮世離れした社交界に住むブルース・ウェインは、「アメコミヒーロー」というキャラクターの持つ特性を抜きにしても、
一般的にこの映画を視聴するであろう”普通の”階級の人間にとっては、その出自そのものが自分たちとは違ったセカイの人間のストーリーに見えるのではないか?と思う。

(※バットマンを身近に思えるバックグラウンドを持つ人間はあまりいないという意味で)

ただ、この映画にあるのは「ジョーカー=アーサー」を取り巻く環境の「リアリティ」で、この映画の視聴者は、「アーサー」という人間を通した「フィルター」によって、この圧倒的な、吐き気を催すような「(世間的な)リアリティ」を、約120分を通じてまざまざと見せつけられる。

もちろんこの映画はフィクションで、実際にゴッサム・シティというものは存在しないので、本当の意味でのリアリティではないし、
この物語で描かれているジョーカーも、そこまで一般的なバックグラウンドを持っているわけではないので、リアリティを感じる、という表現は少し間違っているかもしれない。

ここで思い出されたのは、「正義は悪に対置される(意訳)」といった『ダークナイト』のジョーカーのセリフであった。

”別の意味での悪は、また別の意味での正義である”ーというのはありふれたクリシェかもしれないが、図らずも富裕層の若者を殺してしまったアーサーを貧困層の若者が支持し、(富裕層のヒーローとしてトーマス・ウェインがいたように)貧困層のヒーロー的イコンとなったジョーカーを見るに、

「ほんの少しのきっかけで「悪」は誕生する(意訳)」と続けた『ダークナイト』のジョーカーと、なるほどこのジョーカーは同じ人物なのだと私は感じた。

(※もちろん、同一人物という意味ではなく、同じ出展の人物、という意味で。)

3.表裏一体

「正義の逆は悪」というありふれた常套句を、具体的な例をもって見せられているような気分になる。

極端な表現をすれば、何かにとっての「悪」というのは、任意の何か別のものを支持する共同体やルールにそぐわないものを指す、とも言える。

(ただしこれはあくまで概念としての話であり、殺人や違法行為を肯定・正当化する意味ではない)

トーマス・ウェインは貧困層を救うために市長になると言っていたが、貧困層の代表(=アーサー)を「ピエロ」と表現し卑下した。

この行為が結果的に「ピエロ(=アーサー)」がイコン化されることとなるが、少なくともトーマス・ウェインは(表現は確かに過激ではあったが)、
「貧困層を救いたい」ということを伝えるために犯罪行為について強く弾劾しただけで、その行為そのものは「正しい」。

彼のような圧倒的「正義」は、どこか別次元の存在(ヒーロー)として、ブルース・ウェインの「バットマン」に受け継がれて行く。(息子世代で多少屈折するが)

対して「ジョーカー」は、アーサーの言葉を借りるならば、「自分のような(なんでもない)人間は、黙ってそこにじっとしているのが正しい」、
そしてそれを発言する権利すら持たず、誰からも話を聞いてもらえない、そんな圧倒的な「無名」であることの無力感を本作では丁寧に描かれている。

私は結果的にそれが「リアリティ」だと感じた。

つまり、発言する権利は(見かけ上は)与えられているかもしれないが、何者でもない人間の発言は無効化され、ある種の人権すら阻害される。事実、この物語で起きている「経費削減のために施設が閉鎖」なんていうことは現実でも起きていると思う。

アーサーの精神病が悪化するきっかけの一端となっているカウンセリングと処方箋発行をする施設の廃止が決まった際、施設の職員の女性は「私たちも、あなたたちも、この街にとってはどうだっていいのよ(意訳)」と冷たく言い放った。

職員の女性はアーサーに自分のことを話すようにいうが、彼女はアーサーの言葉を注意深く聞くそぶりは見せない。

彼女は与えられた時間に与えられた仕事をするために存在しており、アーサーという人間の存在はあくまで自分の仕事に付随する一部に過ぎないのだ。
(彼女はアーサーを「苦しみ」から解放するために存在するのではなく、自分の仕事のために存在している)

このような貧富の差、基本的人権、正義と悪ーといったような大文字の言葉では取りこぼしてしまうような、一般的な人間の持つ小文字の物語のリアリティは、多くの「一般的な」人間は当てはまるし、どこか共振する箇所が発生(派生)するのではないだろうかと私は感じた。

「正義の逆は悪(だがそれはまた別の正義)」というありふれた常套句を、具体的な例をもって見せられているような気分になる。

例えば、この作品には体の小さな人間を差別して笑い者にするシーンがあったが、後の展開でアーサーも自分がスベっているナイトクラブでのジョークの映像を(自分が好きな)テレビ番組で放送され、(自分が好きな)テレビの人気司会者に小馬鹿にされる。
(具体的には、「将来の夢はコメディアンになりたいというと、子供の頃は皆笑っていたが、今になっては笑わない」というアーサーのギャグを「たしかに」と締めるように)

この時笑い者にされるきっかけとなったのはアーサーの持つ脳の障害だが、
そこに対して、「お前は俺を笑い者にするためにこのテレビに呼んだ」「お前は悪だ(意訳)」とするアーサーの意見も、まったく間違ってはいない。

一方で、自身の殺人をカムアウトしたアーサーを、「お前は理由をつけて殺人を正当化しているだけだ」と諌めるTV司会者マレー・フランクリンも、まったく正しいのだ。

障害者を笑い者にしたり、ピエロに暴力を振るう人間は確かに「悪」だし、
殺人を犯す人間もまた同じく「悪」だが、その根底には(時に恣意的な)理由があり、

思想というものが人間を人間たらしめるが故に、不自由な人間の「ニンゲン」性に難儀するというような、こうした単純な二項対立では語れないような、倫理上どちらが正しいのかわからない混沌がどんどん敷衍されていく。

4.グリッチ&ゲイン

こうした少しずつズレていく感覚が、アーサーという人間の正気を損なって行くのだ、ということは理解できるが、パンフレットに記載のホアキン・フェニックスのインタビューの言葉を借りるなら、「アーサーがこの瞬間にジョーカーになった」という明確なターニングポイントはわからない。

この物語における「ジョーカー」は、もともとは「アーサー」という名前の男性で、母親と二人暮らしで貧しい生活を送っている。彼の夢はコメディアンだったが、思い描いていた理想の自分とは掛け離れた惨めな生活を送っている。

後の展開でわかることだが、自分が「そう」だと思っていたことが根本から覆される堪え難い絶望感のようなものがこの映画にはある。

自分の父親はトーマス・ウェインだと告げられたアーサーはひどく動揺するが、事実を受け入れて「父親」に会いに行く。

すると、トーマス・ウェインは自分の父親ではないどころか、自分の母親だと思っていた人間も「本当の」母親ではないことを知る。
さらに、深くは言及されないが自分の母親が自分を虐待していたことを知る。「ハッピー」と呼ばれていた由来が、「どんな(辛い)時でも幸せそうに笑っているから」という深刻な理由を知る。

人間が少しずつセカイに絶望して行く様が描かれるにあたり、このような動機は「他人」にとってはどうでもいいことかもしれないし、本当の意味で彼に共感し、その絶望を本当の意味で理解することは難しい「小文字の」物語が続く。(そもそもフィクションであるということは抜きにして)

ただし、彼が「こうありたい」と願ったセカイや、彼自身の理想は一つ一つ丁寧に描かれて、少しずつ、着実に崩れて行く。

こうした少しずつズレていく感覚が、アーサーという人間の正気を損なって行くのだ、ということは理解できるが、パンフレットに記載のホアキン・フェニックスのインタビューの言葉を借りるなら、「アーサーがこの瞬間にジョーカーになった」という明確なターニングポイントはわからない。

最後にライオットに囲まれて踊るジョーカーのシーンがあるが、その際も彼は楽しそうでありながら、少し戸惑いを見せている。

(流血した口の中に溜まった血を口の端から上に塗り、”いわゆる”ジョーカーメイクに変貌するシーンも、口に溜まった血を手で確認し、その時に思いついたように(偶然のように)描写されている。)

5.反転する舞台装置

そのため、この「小文字の物語」は如何様にも敷衍できるようになっている。(監督は政治的な意図はないと断言しているが)

私のような新参者が語るのも烏滸がましいかとは思うが、私の知っているジョーカーは、少なくともこのような姿だった。

つまり、「かっこいい」「カリスマ」ではなく、三枚目の喜劇役者としての立ち回りをする初老の男性、これが私の知る(キリング・ジョークの)ジョーカーである。

冒頭で私は自分自身のことを「ぬるいファン」と語ったが、私はジョーカーという存在が、アメコミというものが苦手で、原作を数冊読んでいるが、バットマンのシリーズを実は碌に見ていない。(ちなみに父がバットマンのファンで、私は目を多いながら見ているタイプだったので、厳密にいう「全く見ていない」わけではないかもしれない、という程度の知識である)

ジョーカーは「ジョーカーは怖い」と私のように感じるように作成された「(理由のよくわからない)悪」であり、バットマンの正史から考えると、イコンとして神格化された『ダークナイト』や『スーサイド・スクワット』のジョーカーは、今までのジョーカー像と比べると異色の存在だったと思う。(年齢設定が若いと思うし)

本作における象徴的なシーンはいくつかあるが、電車の中で電気が点灯するシーンはこれから何が起こるのかわからない不気味さがあり、とても印象に残った。
老朽化した電車の電気がついたり消えたりするのだが、消灯すると画面が暗転する。ふたたび電気がつくと、人間が少しずつ近づいてくる。

ゾッとするようなテンポの良さで人間の悪や憎悪、殺人や暴力が一部隠されていることにより掻き立てられる恐怖と、少しずつゲインを回してエフェクトをかけていくように生じる混沌と狂気が描かれていたように感じた。

ただ、前述したようにそれはあくまで「きっかけの一つ」でしかなく、本作はジョーカーの「オリジン」であるが、このためにアーサーは「ジョーカー」になった、というきっかけは描かれない。

そのため、この「小文字の物語」は如何様にも敷衍できるようになっている。(監督は政治的な意図はないと断言しているが)
私が感じた「リアリティ」というのはそこで、うまく現代の若者が抱える(一般的な)悩みと、ジョーカーの物語がマッシュアップされている。

描かれているのは飽くまで「過去の」アメリカ像ではあるが、本当の意味では普遍的なテーマを描いているという意味、また、「本当の自分とは何か?」と悩み、自分自身のリアルな姿と、理想の姿とのギャップ(承認欲求と現実の)に悩む姿はとてもリアルで、当世代的に見えた。

※余談ではあるが、私自身はASD(自閉症スペクトラム)という障害を持ち、IQ130という知能指数を持っている(3時間ほどかけて精神科で調べた)が、精神科に通い、会社を退職した失業者で、社会から阻害された無名の人間で、しかも母親は境界性人格障害で、現在は絶縁しているので、とても「他人事」とは思えなかった。
冒頭1分足らずで泣いたし、劇場では隣に座っていた白人男性が何度か爆笑していたが、何が面白いのか全くわからなかった。

*余談

人間は不自由である。
テクノロジーが発達しても、人間はイデオロギーから逃れられない。

ちなみに、10/4の公開当日は平日だったにも関わらず、サラリーマン、カップル、ご年配の方、文字通り老若男女問わず観客は多く、ほとんど満席の状態だった。

そんな満席の客席のほとんどが、映画のエンドロールが終了して映画館の明かりが灯るまで席を立てずにいた。

罪は重力のようなもので、ほんの少し背中を押すだけで、人間は傾くーというのはジョーカーの弁だが、ジョーカーや他のヴィランほどではないにしろ、ほんの少しのきっかけで、あるいは、他者の見解の違いによって、私自身が悪と見なされる可能性は今後も発生する。

その場合、きっと正当な(納得できる)理由もなく阻害される個人が大半だろう。

人間は不自由である。
テクノロジーが発達しても、人間はイデオロギーから逃れられない。
その不自由さを、そのままニンゲンの持つ「限界」として感じた。

だから私はまともに彼の物語を観ることができないし、きっと彼の失敗は目を背けたくなる悲劇なのだ。

ちなみに、私はこの作品を「名作」だという人間を信じない。興味を持ったとしても、耐性がないと耐えられない。

04/10 2019

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