「楽屋」
深呼吸して残り香を味わう。いい匂い。
……がするような気がする。
憧れの人がつい10分前までここにいた。
バレエファンなら知らない人はいない人気ダンサー、春田篤史サマ。
活躍はバレエに留まらず広範囲に渡る。
男性化粧品のCM出演、モデル、人気アーティストのPV参加。
東京ガールズコレクションにモデルとして出演したのも話題になった。
小顔で手足が長い。身長は180㎝を超える。
塔子は、大殿筋や大腿四頭筋がモリモリ発達しすぎている男性ダンサーが
苦手なのだが、その点もクリアの細マッチョ。
筋肉の質が良く、膝や足首も柔らかく強いのだろう。
フワッと滞空時間の長いジャンプ。そして着地のプリエは柔らかく深い。
高いパッセが美しいピルエットも絶品だ。
超高速回転からだんだん減速して、もう止まりそうになるほどになっても軸を保ちながら、どうですか、と言わんばかりの笑顔で決めポーズ。
ああ、たまらない。
女性ダンサーのピルエットのサポートでは、
一生懸命のマジ顔から必死さが見えてしまう残念なダンサーも多い。
だが篤史サマはサポートしながらでも、ちゃんと自分の役を演じている。
大きな手。
客席から見ていてもわかる。
塔子は手の大きな男性が好きだ。手フェチかもしれないと思う。
別れたダンナも手だけは大きかった。
篤史サマのあの手で、ウエストをぐっと掴まれたり、ギュッと手を握られたり、天まで届くようなリフトをされたら……。
それこそ、天に昇るような心地がするだろう。
エクスタシー。
感じちゃう。
塔子はハッと我に返る。
変態?
いいの、思うだけだから。
それにしても。
なぜウチみたいに小さなお教室の発表会に出てくれたんだろう。
噂では、薫子先生が篤史サマのお母様と古くからの知り合いだとか。
ウチのお教室はやっと初めての発表会だから、ご祝儀みたいなものかも。
またゲストで来てくださることがあるかしら?
そしたら、そしたら、今度こそは同じ舞台上に立てるかもしれない。
入院中の義父がもう危ない、持ち直した、また危ない……そんな状態が半年余りも続き、塔子は発表会の出演を断念したのだった。義父は一カ月前に亡くなったので、塔子はせめてスタッフで参加したい、と申し出た。
もうほとんどの生徒が帰り、賑やかだった楽屋も
静けさを取り戻している。
篤史サマも爽やかな笑顔で帰られた。
フランツのバリエーション、素晴らしかった……。
「楽屋のゴミ、回収してきてくれる?」
スタッフリーダーの石本さんに言われて、各楽屋を回る。ティッシュ、銀色のお菓子の包み紙、おにぎりが入っていたと思われるパックなんかを、大きなゴミ袋に入れていく。そして、最後に篤史サマの楽屋にやってきた。
塔子はもう一度、深呼吸をする。
意味もなく部屋の中を歩き回る。
ゴミ箱を覗いた。凝視する。
肌色のファンデーションが付いたティッシュ。
水がほんの少し残ったペットボトル。リンゴの皮。何かの包装紙。糸くず。髪の毛。
塔子は、さらに顔を突っ込むように覗き込む。匂ってみる。
手を突っ込もうとしたとき。
何か、感じた。強い視線を。
パッと振り返る。石本さんが怖い顔で立っている。
見られた!? あたしの変態を。
「手早くしないと。5時までに撤収だから」
「そうですよね」
ゴミを素早く袋に入れ、部屋を出る。
石本さんが続き、戸を閉めた。そして、低い声で言った。
「これ要る?」
「は?」
差し出されたのは、15㎝ほどの赤い糸。
「これ、篤史サマの衣装のムシを縫った糸。要る? あたし、いっぱいあるから」
塔子は目を輝かせた。
(終)
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