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1985年のアレ
マナブとよく遊ぶようになって1年が過ぎ、私たちは2年生になっていた。夏休みのことだ。マナブと外で遊んだあと、私の家に涼をとりにきたときだった。おもむろにマナブがNHKを見たいという。「おーい!はに丸」でもやっているのかとテレビをつけると、そこには歓声を受ける男たちの姿が映し出された。
「今日コウシエンの決勝ねんて。知らんかった?おっ、キヨハラホームラン打ったやん」とマナブは言った。
その日は高校野球の決勝戦だったようで、マナブは私と遊びながらも試合の行く末を気にしていたらしかった。桑田真澄と清原和博を擁するPL学園が宇部商業を降して日本一に輝いた瞬間に立ち会った。甲子園は清原のためにあった。
「トヲルは野球興味ないん?」
それ以降マナブは、私に野球について教えてくれるようになった。一緒にプロ野球チップスを買いに行き、私が出したカードを見て、「この人はね、世界一の盗塁王ねんよ」と福本豊の解説をしてくれたりした。
前述したが、マナブは生粋のトラ吉だった。時は1985年、阪神タイガースが21年ぶりのアレに猛進している時期でもあったため、自然に話題はタイガースのネタが多くなり、感化されるように私もどんどんタイガースに引き込まれていくことになる。マナブの父の名前が「雅之」だったこともあり、私たちはタイガースの4番、掛布雅之の大ファンになっていった。
そして1985年11月2日(土)、歓喜の瞬間を迎える。日本シリーズ第6戦、阪神タイガースの先発ゲイルが西武ライオンズの最後の打者を討ち取ると、タイガースが初めての日本一に輝いた。吉田義男監督が宙に舞っていた。私はそのときすでに、自主的にバットの素振りをするような子どもになっていた。掛布に憧れたからなのだろう、右投げのくせに、左で振っていた。