溶ける境界線と衣服

仕事とプライベート、国境、セクシャリティ、時間…、インターネットはこれらの境界線を溶かしはじめている。分断されていたコミュニティは隣接・重なり合い、社会的少数派や個人も声をあげられるようになり、そしてコミュニケーションは日を跨いでいく。

衣服は社会と個人の狭間(境界線)である。社会的状況を衣服はいつの時代も表してきた。いま、インターネットがもたらした境界線の溶解は、衣服に何を与えているのだろうか。衣服自体が境界線だと考えるとそれも溶かされているのか。それって、つまるところ、社会と個人はどうなっているということなのか?

いまは、個人の時代とも言われる。働き方は多様になりはじめ、スーツ離れは一層加速しているように見える。衣服はカジュアルになった。リーズナブルな商品も多数増え、オンラインショップからも購入できるようになり、いらなくなればメルカリで売れる。体験としても極めて手軽なものとなった。個人の時代に衣服はとても簡単なものである。

スコアの高いレストランに過剰なまでにお客さんが集中するように、同調圧力も働きやすいインターネットにおいて、”簡単な衣服”は、境界線としての衣服の溶解のように思える。衣服の共通化、人類のユニフォーム化と言わんばかりに。それって、社会が個人を飲み込みはじめていることなんじゃないか。個人のない社会である。衣服という境界線が溶かされる時、社会>個人という構図はよりはっきりとしつつあるのかもしれない。個人の時代なのに…。

一方で、Z世代は、アスレジャーやゆったりしたサイズ、ジェンダーフリーを好むらしい。スポーツもオフィスもレジャーもどこでも着られるものとして。境界線のない時代にふさわしいなあ。そして、インクルージョンと個性を大切にすると。”人と違うこと”がかっこいいことであり、それを互いに受け入れいていく。そういった価値観のもと、社会が個人を飲み込まんとするこの時代に、未来そのものであるZ世代は敏感にその溶けた境界線の中で、衣服を別の方向に動かしはじめているのかもしれない。その未来では衣服が個人のものになっているように思える。

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