希薄化する信頼とWHY

信頼が希薄化する時代に、製品は色々と証明しないといけないことが増えた。"いつつくられましたか?" "誰がつくりましたか?" "どうやってつくってますか?" "何を使ってつくっていますか?" これらを証明するコストも確認するコストもとても大変なことだと思う。あたりまえのこととしてやらないといけない時代なのかもだけど。

一方で、想像してもわからない1番聞きたいことは、"なんでつくったんですか?" ってことだったりする。信頼の希薄化は、むしろwhyがわかりにくい時代のことじゃないかと思う。商品があふれているだけでなくて、商品あたりの表明しないといけない情報も時としてwhyをよりわかりにくくさせる。なぜこれはつくられたのか…。

お隣さんがつくっている野菜が美味しく思えるように、知っておくべきは、どのような想いで、どのような態度で、その製品がうまれているのかということ。いつ?誰が?何を使って?といった、それらに従う情報は、それこそ技術的にもっと簡単に解決されるべきことだと思うし、つくり手はwhyを追求し体現する。

今まではそのwhyの代弁をマーケティングプロモーションが担おうとしてきたのかもしれない。もっというと、マーケティングが大きな声をあげ多弁になれば、よかった?のかもしれない。ただ、あまりにもwhyやクリエイションが、ないがしろにされたのではないか。マーケティングが売れることだけを目的にしたとき、商品に魂はなくなった。

商品自体で、そのwhyが体現されるのであればいいなあと思うし、もっと自然にwhyに触れられるようになればと思う。そんなことを思うと、つくり手がソーシャルメディアを得たことを革命的にすばらしいことだと思う。小さな受注販売会やBASEのようなショップが人気があるのもそりゃそうだと思う。

あふれる情報の中で、求められているのはその情報の正しさ以上に、whyだと思う。それは商品を通じて表明されるべきだし、流通においても大事にされてほしい。まだこういった側面は大きなシステムの中でのマイノリティだけど、近い将来、この流れの発展が主流になるんだろうなあ。そして、だからこそ、説明の要らない商品は美しい。

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