新聞が読めるようになるニュース解説#8ハンセン病ー見学クルーズに参加して③歴史館で見る患者の生活
こんにちは、あひる編集長です。岡山県にあるハンセン病の国立療養所・長島愛生園で行われた、ハンセン病に対する理解を深める「見学クルーズ」の紹介。3回目は、愛生園歴史館の展示物から、かつての患者の生活を垣間見たいと思います。
初回記事、前回記事はこちら。
島に上陸し、愛生園自治会長さんの出迎えを受け、園内の見学が始まりました。
写真は愛生園の案内図。上陸したのは、「現在地」と書かれたところから西にある細い船着き場です。施設は大まかに事務本部から西(地図だと左)の本土寄りに職員の官舎や看護学校があり、東側(同右)に入所者の居住区があります。
地図が小さいので拡大します。
写真右の「センター地区」「西部地区」などと書いてあるのが居住区です。居住区には「真宗会館」「ロザリオ教会」などの宗教施設も点在しています。愛生園には仏教、キリスト教、天理教の施設があるとのこと。療養生活を重ね、回復してもなお社会に出ることが難しかった人々にとって、信仰は何よりの心の支えとなったことでしょう。
また病気に対する誤った考えから、かつて事務本館と居住区との間は行き来が制限されていました。さしずめ「見えない線」が引かれているかのようだった、とのことです。
歴史館に到着
看板があったところから海沿いに歩き、坂道を少しばかり登ると、緑のツタが絡まるひときわ目を引く建物が見えてきました。ハンセン病とその歴史を今に伝える「長島愛生園歴史館」です。
建物は、愛生園が誕生した1930年に建てられており、当時は事務本館の役割を果たしていました。その後老朽化により事務機能は現在の本館に移されましたが、ハンセン病問題について学び、社会に残るさまざまな人権問題について考える場を設けようと、2003年に内部を改装し、歴史館としてリニューアルしました。
1階には常設展示室や映像室、園長室、2階には企画展示室などがあります。
それでは、歴史館内の主な展示をご紹介し、隔離政策下での入所者の生活を垣間見たいと思います。
展示物①ジオラマ
写真は、1955年ごろの愛生園を再現したジオラマです。1人の入所者が3年かけて制作したと言われています。当時は1800人ほどが生活していたとのことで、人口密度はかなり高かったことでしょう。
戦前の愛生園では、入所者が増える一方で、資金難から住宅を増やすことができず、大きな課題でした。当時の園長・光田健輔は、企業などから寄付を募り、10坪(約20畳)ほどの小さな住居をいくつも建てました。これは「十坪(とつぼ)住宅」とか「寄付寮」と呼ばれました。
それでも住宅難はなかなか解消されず、一つの部屋に複数組の患者夫婦が住むことが常態化しており、プライバシーなどはあったものではありませんでした。
ジオラマの中に「自殺場所」と書かれた崖を見つけました。将来を悲観し、海に身を投げて自ら命を絶つ人もあったようです。
上の写真の左側の半島を回り込んだところが、ジオラマの自殺場所です。われわれが訪れた時間は引き潮で、トンボロ現象で向かいの小島と地続きになる姿を見ることができました。穏やかな風景ですが、幾度もあったであろう悲劇を考えると、風景を素直にめでることはできませんでした。
展示物②音楽、文芸活動
世間と隔絶させられた入所者にとって、音楽、芸術活動が何よりの楽しみだったということは想像に難くありません。愛生園では、入所者たちがバンドを組み、発表会などを開いていました。写真のコントラバスとドラム、旗は当時使われていたものです。
また、写真奥の提灯は歌舞伎の道具です。「愛生」の文字をかたどったマークが入っています。
文芸活動も盛んで、入所者たちは随筆、川柳、短歌、俳句などの結社が作られていました。
中でも有名なのは、歌人の明石海人(1901-39年)です。小学校教員だった海人は、25歳のときにハンセン病を発症し、愛生園に入所。すぐに俳句や短歌、随筆などに取り組みました。37歳で亡くなりましたが、死後に歌集「白猫」がベストセラーとなりました。
今回紹介したのは、展示物の本当にごく一部。時間の都合でじっくりと見ることができなかったので、また行く機会をつくりたいと考えています。
歴史館の開館時間は9:30~16:00で月、金曜休館。見学には事前予約が必要です。ぜひ足を運んでみてください。
きょうはこの辺で。次回は、愛生園の敷地内を散策し、隔離政策の様子を今に残す遺構などをご紹介します。