質問箱〜恥について〜

はじめに

久しぶりに質問箱がきましたヤッ*。٩(ˊᗜˋ*)و*。ッター!
質問箱ありがとうございます!!
まずは豆知識!というか都市伝説的な?恥ずかしいという感情って実は地球人とかごく一部のレアな感情らしいの知っています?
プレアデスなどかなりの宇宙人たちは実は持ち合わせていない感情らしいです。だって、その時はそうしたくてそうしたんでしょう?っていうハートに真っ直ぐだからなのかもしれませんが、世界的に結構な数の宇宙人と交流している系の本には恥ずかしいって何?って記述があるのも面白いです。


質問箱より

さて、今回は恥について。過去にこのことに言及している記憶があるのですが、タイトルの付け方がどうかしているため、自分でも探すことができず仕方無しに書き直すことにしました。

もしかしたら、アメブロ引っ越してくる前のブログの方だったかなあ?NOTEの方かな?いいや、書き直そう!ということで、今回も長文、お付き合いいただけると嬉しいです

さて、はじという漢字は実は恥だけではないと知っていますか?

恥、愧、垢、辱、羞、詬、慚、慙

なんと8個もあります。もっとあったとしたら私の勉強不足です。
そうして昔の日本人はこの漢字を使い分けていました。山という漢字はこういう山の絵文字からできたんだよ!みたいなの習ったと思います。

それと同じように【はじ】という漢字にも当然ですが成り立ちというのがあります。当然ですが、その成り立ちによって違いが生まれます。今回はその違いを知ることで恥という感情にも向き合っていこうと思います。なんか授業みたいだねぇ。お勉強会とか講話会で1〜2時間かけてやるようなお話なので長いです。

なので、分割して読めるように、普段はアメブロで質問箱の回答をするのですが今回はノートに投稿します。目次からジャンプできますので時間のあるときに少しづつ読んでください。

8種類の漢字からはじを知る

恥&愧という漢字

さて、8種類も漢字があるので、まずはオーソドックス恥から行こうと思います。【恥】という漢字は見ての通り、心と耳という文字からできています。そうしてそのままです。自分の心に耳を傾けたときに感じるものなのです。
 そんなこと言われてもよくわからないと思うのでこうやって例えるとわかりやすいと思います。

あなたは仕事帰りの電車で少し混んでいたけれど、最後の空いている座席に座ることができました。隣の駅につくと、あなたの目の前に杖をついた老人が乗ってきました。座席を譲ろうかと思いましたが、周囲にはたくさんの人がいるし、仕事帰りで疲れていたのであなたは少しためらってしまいました。するとあなたの横に座っている子供がその老人に『どうぞ』と席を譲りました。子供だってできることなのに、とあなたは恥ずかしくなりました。

はじめ、席を譲ろうと思ったのに、疲れているとか人がたくさんいるからとか、そうやって自分の良心に言い訳をして、その結果恥ずかしいと感じる様なときに使います。

これが、自分の心ではなく、魂の部分、つまりもっと人としての根幹的な部分や、人間としての部分に背いたとき、愧という感じを使います。心に魂と書くのですから。正確には鬼ですけどね。なぜって、人としての部分に背くということはつまり、鬼のような所業ということです。人ならできないことをするのですから、そいつは鬼だ!ということでしょうかね?
例えば他人のものを盗むとか、そういった犯罪的な部分もそうですし、誰かの心を踏みにじるようなことを後悔し思うときもそうです。
日本語って奥深いですよね。
この2つの漢字はどちらもその人の良心と人間性とかそういった部分によるはじです

慙&慚という漢字

 この2つの漢字について話す前に、まずは参考文献としてこちらを貼っておくので興味がある人は読んでみてください。こういった質問が出るたびに私も勉強になります。結構ちゃんと調べたりもしてるんですよ?まあ、学がないのがバレないように必死です(笑)

さて、これをわかりやすく言えば、龍と竜どっちもドラゴンですよね?では違いは?と言われたら困ると思います。書くのめんどくさいから竜を使ったり、逆にかっこいいから龍を使ってみたり。でも、たつたあげ(唐揚げ的なやつ)には竜田揚げの方をよく使って、龍田揚げはあまり使われないとか、そういうの日本人ならわかりますよね?

もともとの漢字では違いがあったりしたけど、日本人特有の、ニュアンス的な使い方が一般的になってその成り立ちも曖昧になっていってそのうち、どっちでもよくない?ってなっていったのが、異字体です。そうして、慙と慚はこのどっちでもよくない?という関係性です。

では実際はどういう使われ方をしているかというと、大体は熟語的な難しいやつです。例えば、【慙恚】(ざんき)という言葉は、恥ずかしく思うと同時に怒りが湧いてくるという意味があり、森鴎外や中島敦など明治や昭和初期の本に記されていますが今ザンキと聞けばゲームの残機か、北海道の唐揚げしか浮かびませんよね?(ザンギだっけ?)
他にも破戒無慙(はかいむざん)など、戒律を破っているのに気にもしてないなど今ではかなり限定的に使われています。
例えばある人気声優さんのスキャンダルだと、
結婚しているのに、別の人とも婚約をちらつかせて浮気をしていたらしい、しかも愛人が2人もいたとか、あいつは本当に破戒無慙なやつだよ。みたいな風に使います。
どちらの漢字も、守るべき規律や、ルール、常識、戒律などをわかっているのに、もしくは知らずに破ってしまいはずかしく思うときに使います。

垢&詬という漢字

どちらかというと、はじと読むよりあかと読むほうが馴染みのあるこの漢字。ネットスラングでは垢BANなんて風に使われていたりもしますが、この垢という漢字は汚れとかそういうような意味があります。汚いもの、そんなニュアンスを含みます。つまりこのはじは、人生の汚点とか体面を汚されるとか、名誉を汚されるとかそういうようなはじの時に使います。国会議員の汚職とかも本来はこのはじでしょうけどもう恥ずかしいとも思ってなさそうですよね。

もう一方の詬のほうは、垢という漢字に言うという漢字を合体させたような漢字ですよね?これは言葉によって恥ずかしい思いをしたときに使います。公衆の面前でハゲとかデブとかののしられて恥ずかしい思いをしたとかそういう時に使います。
どちらも汚れとか、汚いものという意味を含みそういった名誉や尊厳や体面などを汚すようなはじの時に使います。

辱&羞という漢字

屈辱だ!雪辱を晴らす!みたいな時によく見る漢字ですが、この辱というはじは受け身のはじです。自分からやらかしたというよりも、相手から一方的に受け取ったはじというニュアンスを含みます。
常勝校が試合に負けた時とかに雪辱を晴らす!とか言いますよね?
逆に、羞というのは、例えば、
彼の完璧さがより私の無能を浮き彫りにし羞恥心を煽った
のように、勝手に受け取って勝手に感じるニュアンスがあります。
どちらもある意味自分の価値観に関わるような部分のはじであるとも言えます。

このはじはどの種類?

はじを分類分けする

 ひとことで恥ずかしいといっても、色々と種類があるということをわかっていただけたと思います。昔の日本人はこの【はじ】という感情をきちんと使い分けていました。ですが、今は恥という漢字のみしかほぼ使われていません。それに伴い、恥ずかしいという感情もひとつだけのようになってしまいました。ですが、はじと向き合うとき、本来はそうではないということに立ち返ることが必要なのです。

例えば、辱や羞のように、他人からの受けとった恥ずかしいという感情は持っているだけ無駄です。だって自分ではどうしようもないじゃないですか。例えば勝手にデブとかハゲとか言われても、言う人がルッキズムに支配されている差別主義者なのですからどうしようもないと思いません?事故のようなもので回避不可能です。そもそも他人の外見をどうこういう時点で人としてどうかしていますし。言われたほうが恥ずかしく思う必要はないどころか、本来は言う方が恥ずかしく思うべき事象なんですからね。

そうやって、自分のはじという感情がどの漢字に所属するんだろう?と見ていきます。そうすると、究極を言えば、恥と愧しかなくなるんです。それはつまり、自分の心に背いたか、自分の魂に背いたのか、ということです。

そうしてその結果が、垢だったり慚だったりするだけだと気がつくでしょう。つまり、自分の心や魂の部分に従って生きればはじの感情とは無縁でいられるのです。わかりやすく言えば、あなたの心の中の天使に従いなさいとでもいいましょうか。昔の人はこれを、

『誰が見ていなくてもお天道様(太陽のこと)が見ているのだから、お天道様似顔向けできないことはするんじゃないよ』

なんて言われて育ったものです。つまりこのお天道様が良心であったり、神様であったり、天使であったり、エンマ様だったり、腹の虫(死んだ時にエンマ様に告げ口する妖怪的な存在)だったりするのです。

そうは言ってもやっちゃうことがあるのが人間です。ああ!やってしまった!といつまでも恥じ入って後悔することは誰にでもできます。そうしてその時間が長いほど、人は辛く苦しい思いをします。そのうち過去にとらわれて今を見ることができなくなったり、他人を恨んだり、自分を罰しなくてはいけないと、自分は幸せになってはいけないとそんなふうに生きる人もいます。そんなのはとても非合理的で誰のためにもなりません。ただの自己満足ですらないのです。だって自分自身すら許せないのですからね。

分けたらどうすればいいの?

愧なのか、恥なのかを分けたあと、なぜしなかったのか、なぜやってしまったのかを見ていきます。そうすると大抵はしょうもないことなんです。
みんながいたからとか、みんながいなかったからとか、欲望に負けてとか、誘惑がとか、大抵はしょうもないことなんです。
だから次はそうならないようにどうしたらいいのかを考えたらいいのです。どうしたら欲望に負けないでいられるのか?
どうしたらみんながいてもいなくても勇気が出せるのか?
どうしたら誘惑に負けずに要られるのか?
どの答えはとってもシンプルです。
【決めること】これだけ。
次は席を譲るって決めるとか、次は繰り返さないと決めるとか、本当はそれだけなんです。そうしたら誘われても揺らぐことはないのです。

そんなこと言ったって、人は弱いところもありますから、揺らいでしまうときもあります。そうしたら決意が足りなかっただけですから、もう一度決めたらいいのです。

例えば、焚き火の炎を触ってしまったとします。当然ですがやけどをします。そうしたら大抵の人はもう炎を触るのはやめようと決めます。触ってみてよ!と誘われても、触ったらいいことがあるよと誘惑されても大抵の人は触らないでしょう?それは、もう懲りたからです。痛いのも暑いのも嫌だと決めたからです。あなたがもし何度も繰り返しているのなら、本当の意味で恥ずかしいとは感じていないからです。

もしくは恥ずかしいとは別の感情があるからです。例えば恥ずかしいけど注目されて嬉しいとかね。これは例えばSNSで迷惑行為を晒して炎上している人と同じようなものです。恥ずかしいよりも多くの人に注目されたいとか、そういったこじれた承認欲求が暴走した結果迷惑行為を繰り返すようなことをしたりもするのです。ですから繰り返す場合は、その奥に恥以外の欲望が隠れているのでそれを見つけなければなりませせん。

恥ずかしいことは悪いことじゃない

恥ずかしいのは良いことです?!

大抵の人は当然ですが恥ずかしい思いなどしたくもありません。一部の馬鹿な人たちは、『恥ずかしい話なんだけど、』とか言って昔のグレていたときの喧嘩などの非行や犯罪行為を自慢したりする人もいますが、そういった人たちは本当は全く恥ずかしいと思ってもいません。逮捕されたかどうかにかかわらず、自分の違法行為を普通は恥じ入り言わないからです。

逆に自分が恥をかいてまで誰かのために何かをするという人はとても少ないです。例えば、エレベーターでおならをしてしまった人がいた時にかばったりしますか?殆どの人は迷惑だと責めることはしても庇うことはしないでしょう。人前でおならをすることは一般的には恥ずかしいからです。

他人の恥をかぶったり、自分の恥を晒すことができる人はとても少ないのですから、他人の成長や非を諌めるために自らの恥部を語ることができる人はごく少数です。逆にそれを成し遂げる人は勇気ある人と称えられます。チョコで有名なゴディバ婦人の話などは有名ですよね。(現在では実話ではない説が有力ですが。詳しくはグーグル先生に聞いてね)

 小さな子供の頃を思い出してみてください。川や海などで全裸で遊んだり、性別など気にせず同じ教室で着替えたり、そんな記憶はありませんか?今はそういったことも犯罪になる時代なのかもしれませんけれど、平成初期くらいまではそんな時代だったと思います。ではいつから全裸は恥ずかしい、異性がいる前で着替えるのは恥ずかしいと感じるようになったか覚えていますか?

つまり、今までは恥ずかしいと思わなかったことが、恥ずかしいと感じるようになったのです。もちろん、身体的な成長というのもありますが、同じように精神的成長をしたからということでもあります。
もちろんそこには文明的な教育というものもあります。

例えばあなたが裸族の村で育ったなら、大人になっても全裸でいることに何ら疑問ももたないでしょう。そういう文化なのですから。ですが、文明社会でそだったのなら全裸で外に出ることは恥ずかしいことだと教わります。大人になるほど全裸で外に出ることはないでしょう。それが教育であり、精神的な成長でもあります。

ところが文明社会においても教育は完璧ではありません。環境によってはそういった教育を受けることができない人もいます。それは知能の問題がある場合もあります。知的障害がある場合、他人のものを盗んではいけないと教わってもそのことを理解することができず犯罪を繰り返してしまう人もいます。そのことは例えばこの本にも書いてあるので興味がある人は読んでみてください。

 そうやって、例えば自分の障害であったり、教育的な環境であったり、他にも様々なものによって、文明社会に生きるもしくは、そもそも人間としてという部分で本来ならば恥ずかしいと思わなくてはいけないことを、全くハズカシイと思わずに生きている人も中にはいます。そういう人たちの言い分は大抵が、仕方がない、他に方法がない、それが一番早い(簡単・楽)から、というようなものが多いです。

恥という感情は、正しいことを知るという知識と、それを正しいと理解する知能と、自らの過ちを受け入れる精神という3つの要素があって初めて感じることができるのです。どれか一つでもかけていれば、それは仕方がないことだとか、そんなことをする必要はないと感じるからです。

つまり、恥ずかしくなかったことを恥ずかしいと感じられるということは、成長の証でもあるのです。

脱線話(読み飛ばし可)

また個人的に感じていることがあります。それは品位です。
いわゆるお上品だとか、お下品だとか言われるようなことです。
それはお金持ちだとか上流階級がーとかそういうことではありません。
たしかにある程度そういった部分とはリンクするところもありますが、必ずしもそれはイコールではありません。お育ちが出るとかそういう部分はあると思いますが。

品がある人ほど、恥という概念を多く持っています。
そうして逆に品のない人ほど恥という概念が少ないです。
例えば先程おならでたとえましたが、生理現象なのだから屁が出ることを恥ずかしいと感じる必要はない!という人もいます。
おならをコミュニケーション(遊び?)として小学生などはにぎりっぺ!とか言って使っていたりもします。ですが、品がある人たちは人前でそのような行為はしません。なぜなら、屁というものは、気体のうんちだからです。

お風呂でおならをしてはいけないとか聞いたことはありませんか?
おならの中にいる大腸菌はお風呂のお湯の中で生きていられるのでお風呂のお湯が口から入ると薄めたうんちを食べるのと同じです。

気体のうんちであるおならには、大量の大腸菌が含まれています。そのためエレベーターなどの狭い空間に大腸菌をばらまくのと同意義となります。人前でおならをするのは、その人たちの前で食中毒の原因菌をばらまくのと同じです。こういったことを長々と説明しても子供は理解しませんからこう言います。
『人前でおならをするのは恥ずかしいことだからやめなさい』
恥ずかしいという中にはそういった衛生的な教育なども含まれています。
また、やるべきことをやらずに権利を主張し責任を放棄することも恥ずかしいことだとして教えたりもします。そうしなければ社会として成り立たないからです。

 こういう経験もあると思います。人前で口を上げて食べ物を食べてはいけないという、いわゆるクチャラー問題です。衛生面ももちろんですが、クチャクチャと食べるという周囲への迷惑への配慮という部分もあると思います。

ところが品が無い人たちは、こういったことは気にしません。教える側の親がそういった教育を受けていないということもありますが、そんなことを気にしていては生きていけないというのもあります。例えば飢えていて落ちているものを食べる時に菌がーとかを気にしたりはしないでしょう。それよりも、いまご飯を食べ飢えをしのげるかのほうが重要だからです。そうしてそういった環境で育ったなら多少菌がいてもなんとかできる体を持っていたりもします。

ですから海外では上流階級ほど、品位を気にしますし、下品な人を嫌います。なぜなら、そういった人たちは教育をきちんと受けていないので生きるためだったり様々な理由で犯罪行為に走ることも多いからです。
つまり、犯罪に巻き込まれぬように自分の身を守るためでもあります。
こういった仕組みが本来あって身分制度や階級などが機能してきました。もちろんそれ以外の理由もたくさんありますけどね!そうしてそっちのほうがメインですけど。そういう側面もあるということです。
そのため上流階級ほど恥という概念と向き合うことが多かったと思います。

でも日本は少し違います。日本は身分が海外ほどありません。その証拠に、あなたは貴族ですか?ときかれて、はい、と答える日本人はどのくらいいるでしょう?収入的な意味で上流階級とかそういう分け方をしたりはしますけどそんなものは諸行無常の盛者必衰ですからね。

つまり、日本人は基本的に個人の生き様というところでしか見ていないのです。本来は品があろうがなかろうが(もちろん無いよりあったほうがいいでしょう)、大和魂というところだったり、自分の誇りや矜持だったりとか、他人がどうというよりも、自分がどうか、家族や一族がどうとかでしかなく、品があろうがなかろうが自分に胸を張って生きれるかでした。

でも村八分なんて制度もありますし、世界で一番他人の目を気にする国民性でもあると思います。島国という大陸とは違って限られた領土の中で生きていかなくてはいけないのですからそれも仕方がないかと思いますが。そういったなかで周囲とうまくやるために生み出したルールからそれる行為を恥としたり、自分や一族の魂に恥じ入る行為を愧としたりしたのではないかと私は考えています。

そうしてさらに、例えば武士として恥だとか、職人として恥だといったように自分のプライドのような部分にも愧という言葉を使います。そこには誰が見ていなくてもという部分もあったり、逆に人が見てるからこそという部分もあったりと日本人の恥の概念は海外とはまた少し違うのではないかと思います。それでもやっぱり、恥ということを心に留めて生きる人のほうが品格があるように見えますし、恥をかかぬ様にと生きる誇りや矜持がその人自体をかっこよく見えるようにしている気がします。
たとえば、あえて戒律を破り、破天荒に生き、恥をかきまくるほうがかっこいいと言わんばかりに生きた一休さんは逆にかっこいいみたいなところありません?ロックでパンクな生き方だよね!みたいな。つまり、誇りや矜持と恥は繋がっているのではないかと私は考えています。だからこそ、逆に恥を見れば自分の誇りや矜持が見えてくるとも言えます。あなたにとって人生の矜持や誇りとはなんですか?

恥と成長と人生と走馬灯

成長の証が恥であるのなら、人生で最も精神的に成長を果たし、かつ知識も知能もある時は一体いつなのか?と問われたらそれはおそらく死ぬ間際でしょう。(痴呆などの一部の病気や怪我の場合は除く)

自らの死を受け入れるほどのメンタルを持った時、おそらく人生で最も後悔をして、最も恥を感じるのではないかと思います。
死の間際に見ると言われている走馬灯が、本当にあるのかどうか、自分も見るのかは、自分が死ぬ間際にならないとわかりませんが、もしあるとしたら後悔も恥も少ないほうがいいはずです。

 そのためには、今この一瞬、一瞬を恥をかかないように、後悔をしないように、自分の良心や魂に正直に生きる他ないのではないかと思います。そうして自分に正直に、自分らしく、自分を味わって生きた時、恥の少ない、後悔の少ない充実した人生を歩むことができるのだと思います。もしそういった人生を歩むことができなのなら、その時に見る走馬灯はきっと愛と達成感と感謝に溢れたものとなると思います。

さて、この1文が有名な小説があります。
きっと多くの人が知っているでしょう。

『恥の多い生涯を送ってきました。自分には、人間の生活というものが、見当がつかないのです。』

太宰治の人間失格です。
彼が意図したものとは違いますが、人として生きるという時、魂に忠実に愛で生きるのであればおそらく人として素晴らしい人生を歩むのでしょう。そうして、エゴや自分の身勝手な心に忠実に生きた時、それは恥の多いものとなるのだと思います。
興味がある人は読んでみてください。著作権が切れているので無料で読めますよ!

最後に!

悔悟慚羞(かいござんしゅう)という言葉があります。
悔(く)いを悟ってはずかしい、はずかしい!という並びの漢字です。
つまり、後悔しているしできるなら無かったことにしたい!と思うくらい後悔しているはずかしいことに使う熟語です。

悲しいことに人生にはこういった悔悟慚羞な経験というものが1回か2回はあるものです。黒歴史とかね。
それでも明日はやってくるし、生きていかねばなりません。
どうかしている人はこういった経験を無かったことと本気で脳内消去できる人もいますが、そんなことをしても実際に周囲の人の脳内から記憶を消せるわけではありませんし、あいつやばいと揶揄されるのがおちです。

旅の恥はかき捨てと言ったりもしますが、過去を消せるわけではありませんしやってしまったものは仕方がないです。もうやってしまったのですから、どうやってとり返すのかとか、どうやったら繰り返さないかとか、そういった未来に目を向けるほうが過去にとらわれて動けなくなるよりか幾分マシです。

後悔も恥も少ない未来のために、いま何をするのかで、結局はその選択肢の連続でしかありません。だからこそ、今何をするのか、今どっちを選ぶのか、今後悔しない方はどっちなのか、本当はどうしたいのか、そういった自分に正直になるよりほかないのではと思います。

これが私の今人生経験における恥という考え方です。この記事自体がはじとならぬよう日々精進したいと思います。さて、あなたにとって恥とははんですか?あなたは恥をどう説明しますか?

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