2023/4/15 私のフィールドオブドリームス

今日は9:30頃に起きた。今日は雨が降ると聞いていた。ウーバーイーツは雨の日に雨の日ボーナスが出る。それをやるために早く起きた。
ただ、昨晩見た夢の気持ち悪さと最近頑張りすぎてるなと言う気持ちから、あまりウーバーがやれなかった。

まずはその気持ち悪い夢というのを、だれも求めていないがここに書き残しておこう。本当に気持ちが悪い夢だった。

とても寒い冬の夜のようだった。私は夜も更けて眠りにつこうとしている。私は山の中にある、ワンルームの木製の小屋のようなところで寝ようとしている。寝ていると、ドアを誰かが開けたような気がする。寝ぼけているのかなと思いながら、眠りの続きをしようとすると、目の前でかなり色白で白い着物を着た女性が長い髪で顔を隠したまま私の顔を覗き込んでいる。
うーん。これはまずいな。と思ったところでその女性は目と口を大きく開き「きゃあああああ」と耳をつんざくような声で叫んだ。その瞬間に私は死んでしまった。

あ、自分は死んだのだと思った瞬間、また夜の山に私はいる。その瞬間に私は早くも気づいてしまった。これはあの幽霊とも妖怪ともつかないものに殺されるのだ。そして、それに殺されない道を探さなければ私は永遠に殺され続け、生き返り続ける。

なぜ、彼女は私を殺そうとしているのか、彼女は直接に私を刃物や鈍器などで痛めつけているわけではないのになぜ私を殺すことができるのか。不思議であふれていたが、いそいで彼女が来る前に対抗策を考える。
まずはドアをなんとか家財道具などでふさぐ。しかし、彼女は体の形を変えられるのか、その隙間をぬって部屋に入ってきて私を殺すのだ。

また夜の山の中である。私は外の雪に隠れることにする。冬の山は雪が豊富だ。私はまずなぜかそこにあった側溝のようなところにあおむけに横になり、とにかくたくさんの雪を体にかぶせる。その作業中、彼女が近づいてきている気配を感じる。ひとまず自分の顔を雪で覆う。しかし、彼女は私が顔を隠す前に目の前にやってきて私を殺すのだ。

また山の中にいる。私は今度は手元にあるものを使って戦いを挑むことにする。部屋には包丁、斧、何に使うかはわからない木製の棒などがあり、それを使って対抗することにした。しかし、彼女は私のもっていた武器をたやすく奪い、逆に私を痛めつけるのに使った。私は死んでしまった。

山の中にいる。いよいよどうすればいいのか。他に手はあるのかと悩む。このワンルームの小屋には一つ外を見られる窓がある。時間が経つと、窓の外で彼女はとても悲しそうな顔をしながら窓を通り過ぎていく。

これまで通り彼女はドアをあける。そこにはとてもセクシーな格好をした色黒な女性が立っている。「?????」なにかをいっているのはわかったが私は記憶がたしかではない。「お前には殺される才能がある」みたいなことを言っていた気がする。
気が付くと、私は青々とした恐らく夏の、森に通った舗装された道路に立っていた。

というところで目が覚めた。いや、気持ち悪すぎるだろう。たぶんこれを読んだ方の中には例え夢とはいえ、こんな夢をみて、それをみんなの読める日記として発表する。お前の精神はおかしい。そう思った方も多いだろう。
その通り、私の精神はおかしいのである。でも、それでいいのだ。

私は中学生くらいの時に太宰治にあこがれた。なんと自分の命を軽んじた文章であろうか。いや、軽んじているように見えて、自分をやすやすと殺してしまえるということを発表することで自分の価値の高さを世間に知らしめたいという行き過ぎた自己愛を感じる。いわゆる中二病のような症状である。
自身の死をネタにして生きてきた太宰治は最後には入水自殺してしまう。

さらにちなんでいくと中二病と言うのは伊集院光さんが名付けたものと伝え聞く。伊集院さんのラジオが大好きで聞きほれている。なにかつながりを感じる。

そして、大学生の時分にはQueenのフレディマーキュリーにあこがれた。ボヘミアンラプソディでは「これは現実なのか?夢想なのか?」という言葉から始まり、「ママ、人を殺しちゃった。引き金を引き、男は死んでしまった。」という歌い出し。この歌詞を見た時に電流が体を走った。なんとも悲しくて、喜びにあふれ、夢のようでいて、とても現実的である。
フレディは同性愛者であり、同性間での性交渉で感染したエイズによって亡くなる。

私は長く、自らの命をもって自己表現をし続け、若くして亡くなっていく人を英雄視する傾向にあるようだ。なので、この日記において私が幾度となく自ら死を選択することをほのめかすことを書いているが気にしないでほしい。私は重度の中二病を患っているのだ。

中二病と言ってしまえば、私はなんだか死なないのだろうと思えはしないか。つまりは、ただの口だけ人間なのである。
ただ、口だけ人間が自らの死を選ぶことができた時、それは精神の成長であり人生の終わりとなる。なんと矛盾したことだろうか。


さあ、こんな気持ちの悪いことはここらでいったん置いておく。
今日は起きてから食事などをしたあと、また眠り、13時に起きた。ウーバーを始める。15時でいったん終わり帰宅する。
その後、17:30から21時ころまでウーバーをやる。たくさんお金を貰えた。うれしい。

昨日見たフィールドオブドリームスの話をしたい。この映画は多くの人が名作として名前を挙げる。ただ、私はなんとなく見られずにいた。それは単に面倒くさいからだ。昨日はなぜか見ておきたいという気持ちが高ぶり、見てしまった。

とても良い映画だった。これは見る人によってはただ、あたまがおかしくなってしまった人の物語だ。ただ、現在絶賛頭がおかしくなっている私にとっては何とも心地の良い映画だった。

コーン畑から、すでに亡くなったメジャーリーガーたちが現れて野球をする。そして、メジャーリーグにあこがれた若者、あと一歩のところの夢半ばで野球界から姿を消した者たちが球場に現れ、野球を楽しむ。「ここは天国か?」この言葉がカギとなり、物語は進んでいく。私の心を揺さぶった。
昨日の日記で、東洋館はフィールドオブドリームスだと言った。

私は爆笑問題さん、伊集院光さんにあこがれてお笑いをやりたいと思った。それが何の因果か漫才協会に入った。そして、そこで舞台に現れてお客さんを笑わせていくのは、笑組さん、金谷ヒデユキさん、BOOMERさん、X-GUNさん、その他大勢のラジオで耳にしてきた名前の芸人さんたちだ。
まさしくフィールドオブドリームスのワンシーンを見ているかのようだ。

フィールドオブドリームスで主人公は、八百長疑惑で球界追放された選手たちのために球場を作ってしまう。そして、そこに亡霊か何かわからない選手が集まってくる、そして主人公と分かり合えないまま亡くなっていった父親も現れる。

私の父は一度、東洋館にやってきたことがある。息子が滑っている姿を見て何を思ったのだろうか。

私の父の父、つまり祖父は昔、地元にやってきたチンドン屋にあこがれていたそうだ。チンドン屋について町中を歩き回ると、その一味から声をかけられる「きみがチンドン屋にそこまで興味があるなら入れてやろう。親の了解がないといけない。説得ができたなら明日、ここにまた来てくれ。」そのように言われたそうだ。
私の祖父は、なんだか親にチンドン屋になりたいということは言い出せず、約束の場所には行かなかったそうだ。
そんなエピソードを踏まえてみると、どうだろう。
この映画の中でも、主人公は自身の父が自分の夢に向かって行動を起こさなかったことに怒り、自分は親とは違うというところが原動力になっている。我が家は一世代違うとはいえ、この状況に似ている。現代にチンドン屋はなくなったが、その日暮らしの浮世離れした漫才師に私は成ろうとしている。

いつか、私が東洋館で漫才をしていると父、祖父が現れて漫才に混ざってくるのだろうな。その瞬間に私の物語、フィールドオブドリームスは終わるのだ。

東洋館の袖と舞台上の境というのはコーン畑であり、あの世との境界線なのである。

この映画では、野球と家族というものをうまく見立てるための道具として我々に見せ、だれもが共感してしまう作品になっている。
ハイパーおすすめ作品に認定である。

今日面白いと思ったことは「私はお酒を飲みながら日記を書いているから頭がおかしくなっているように見えるだけだ」ということ。

こんなつらい人生。ここに空き缶を置いておきます。