2023/4/8 アドリビドゥムの危険性
また今日と昨日があいまいになった。
昨日は5時ころに眠ったようだ。今朝は11時すぎに起きたようだ。ずっと夢の中にいるような感覚だ。自分が生きているのか死んでいるのかわからない感覚。ふうわりとした感覚。辛いと楽しいを反復横跳びしている。
お笑い芸人で薬物に手を出してしまう人がいない(表ざたにになっていない)のは、お笑い芸人が常に薬物依存者のような精神状態にあるからだと聞いたことがある。まさにそこに私はいるのではないか。
ネタを考えているとき、自分が自分ではなくなる。肉体から精神は離れていき、まだ立っていない舞台から客席を見渡す。精神はやがて肉体へ戻り、キーボードを叩いて文字を打つ。これを延々と繰り返す。
これはもう薬をやっている人間と同じだ。わざわざ薬を使う必要はないのである。
今日の予定は東洋館で10分の漫才、ライブで10分と5分の漫才。計3回だ。なかなか詰まっているではないか。
13時ころまでネタを書いてみた。本当に書いていたのか私も私を信じ切れていない。確かにパソコンの前に座っていたのだが、今となっては記憶はうつろである。ここらでもう打ち止めにする。自分の中にあるものはすでに出し切っており、これ以上はないと思った。
14:45からの東洋館の出番だ。思い切って早めに行って、屋上で野球の素振りをすることにした。私のイメージの中の話であり、実際にそのシーンがあるか定かでないが、時代劇やバガボンドで宮本武蔵や佐々木小次郎と言った剣豪は精神を統一するために庭で素振りをする。着物の上半身をはだけさせ、袴だけでただ汗を散らしながら素振りをする。昔から人がやっていることには意味がある可能性が高い。
私はあいにく真剣も木刀も持ち合わせない。手元にはZETT製の木製バットと高橋由伸モデルの金属バットの二本がある。私は素振りをしにいった。
回数は数えなかったが、丁寧に素振りを30回ほどした。一回一回、投手の投げる球筋を想像しながら、脳内で安打を放つ。自然と雑念が消えていく。
体に絡みついている邪の気、穢れが1スイングごとに体から払われていく。
なるほど、素振りには良い効果があることが分かった。今後、取り入れていくことにする。
今日の東洋館は、水谷千重子先生が歌謡ショーを行う日だ。お客様は満々席。札止めとなったようだ。そんな日に、諸先輩方が5分の持ち時間のところを今日は10分間任された。まいった。
すっきりしないウケとなる。今回の10分ネタは私の思う面白いと思うものとそこまで面白いと思っていないところがないまぜになった10分だ。
そこまでだなと思っているところがウケ、面白いと思っていることがウケない。またも、私の体に穢れがたまっていくのを感じた。
うすくら屋のシュースケさんが楽屋にずっといた。話をする。さまざまな要因が重なってウケるウケないは決まるから、そこまで気にすることはないという意見であった。と私は受け取った。
はたけんじ師匠が若手楽屋にやってくる。「結局、お笑いってむずいねん。漫才、漫談は間(呼吸)が複雑で教えることができないねん。」ということをおっしゃっていたと思う。話を聞きながら私はあまりにも紫すぎるスーツに気が散って話がしっかりとは入ってこなかった。
東洋館をあとにして、次は高円寺でライブだ。あいだの時間に一度帰宅して、きしめんにカレーをかけて食べる。カレーはうまい。書いていないが、昨日の夜も朝食もカレーだった。どうだまいったか。
高円寺に向かう。5分ネタの方はほぼ練習できていなかったので電車の中で台本を見ながら向かう。今日のライブはとんとん拍子、ミーナというかつてK-PROに所属していた若者たちだ。ミーナのATUSHI氏は確かK-PROでは無かったはずだ。今、冷静になって考えると、奴はどこから現れたんだ。まあいいやお笑いなんてのはみんなどこからきたのかわからん奴らばっかりだ。私のこともどこから現れたのか知らんよという人も多いことだろう。
それでいい。あまりお笑いに深入りすると精神がおかしくなる。
我々のネタの出来はまあそんな気にしなくていい。漫才新人大賞でも唯一予選落ちのコンビだ。語る価値もない。でも、面白いと思ってくれた方がいたとしたら、最大級の感謝を伝えたい。あなたのおかげで私は生きている。
ミーナのネタは何度か東洋館で見たことがある。かしこい漫才をされている。すごく頑張っているのが伝わってくる。これは本当に皮肉ではない。頑張る姿を応援されてなんぼのもんである。今日もしっかりと構成を大事にしていた。
ユウキロック氏が予選の総評で「ミーナは未来があるなぁと思いました」と語っただけはある。確かにこれだけ頑張れていれば未来はある。
開演直前まで、二人でネタの細部について語り合っていた。よいことだ。
とんとん拍子のお二人のネタはなんだかんだ初めてちゃんと見た気がする。いい意味でナンセンス。二人の会話には意味がない。でもその意味のなさこそが本来あるべき漫才だとも思う。漫才の大大大名人、いとしこいし師匠のネタに「わたしの好物」という漫才がある。もう見た目におじいさんの二人が好きな食べ物の話をする。これもいわばナンセンスである。だって、知り合いでもないおじいさんの好物なんか私の生活になんの意味も持っていないだろう。でも、めちゃくちゃ面白い。
そうだよ。漫才なんてナンセンスなんだよ。黄色のスーツに黄色の眼鏡だがそこはいっさい触れない。漫才師と言う存在自体がナンセンスなんだよ。そういうメッセージをとんとん拍子は我々に投げかけている。
さあ、一応我々の漫才についても書いておこう。今日と言う日を未来の私が振り返るときになにかのヒントを与えてくれるかもしれない。
最初の10分ネタは東洋館でもやったものだ。ほぼ失敗もなくやれたんでないか。そもそもの本の面白さはおいといて、である。それも入れちゃうと、全部不正解!
5分ネタは全部ネタが飛んだ。もういいやと思った。なんだか、これはこれでいい感覚をつかめた気がする。全部ネタがないということはシンプルに素の人間性がでる。これって私がこのところ特に頭を悩ませていた「自分らしさ」への回答のうちのひとつになる。あのときに口から出た言葉、動きこそが現時点の私の素だ。いいじゃないか。学びが生まれた。
今日の漫才は、台本こそあれど自由な漫才ができたという感覚がある。これでいいじゃんね。ずっときれいな台本を作ろうと頑張ってきたが、突発的なことは自分らしさが乗っかることで、台本にはない自然さがある。そうそう。この感覚なんだよ。
でも、この感覚もちゃんと台本を用意したからこそつかんだものだと思う。はなから飛ばすぞ~と思ってやってもこんな感覚は絶対に手に入らない。
もし、これを何かの間違いでスーパー若手が目にして「そうかアドリブこそ面白いのだな」とは絶対にならないようにしてほしい。アドリブはつまらないぞ!言い切っておく。アドリブでやってるよという先輩方は、完全なアドリブではやっていない。以前、私は日記に書いたが、先輩の言うアドリブはジャズのアドリブのようなものだ。コード進行が決まっていて、過去の二人の関係性の中で組み立ててきたものを組み合わせてアドリブを構成している。
在庫を持っていない状態でのアドリブは危険すぎる。プールサイドを走るくらい危ない。未来の私にも言っておく、もしアドリブをやろうとしているなら絶対にやめろ。
ライブ後、いまどきの若手らしくすぐに解散した。私は最寄り駅でまたお気に入りの居酒屋でごぼうの揚げたものを食べた。そして、いま家にいる。
もう寝ようと思う。明日も素振りをするつもりだ。
今日面白いと思ったことは「突発的なものの中に自分らしさが宿る」ことだ。