もりげき王2019終わっちまったぜの巻
もりげき王2019、無事終わりました。
土曜日に打ち上げ兼反省会をして、この町で演劇を続けることについて話し合うなどして、あとはボケッと土日を過ごしてました。
それでなくてもいつもボケッとしてるのに、何か大きなイベントごとが終わった後は輪をかけてボケが加速します。人生を無駄にしている? うーんそうかもしれないけど、これで私ボケッとするのが大好きだったりするんだよな。
意味もなく横手まで車走らせて、横手川を朱に染める晩夏の夕暮れを眺めている時とか、このうえなく幸福な心地がします。横手城のお堀周辺の景色が特にお気に入り。こちらに越してすぐのころ、自動車学校に通いながら何度も眺めた風景なので、そういう意味でも思い入れがあります。
閑話休題。
チームはかばかは予選Bブロックを通過し、決勝ブロック4位という結果に終わりました。メダルすらもらえてねーじゃねーかよ! と思ったそこのあなた、そうなんですよ。私これすごくびっくりしてて。今となっては隠す必要もないので言いますけど、私これ予選ブロックすら通らないと思ってたんです。なので5日の審査員講評のときすでに「ああ、終わったなあ……」という気分でポケッとしていたので、2位通過で肩を叩かれた時は「なんて!?!??!」という気分でした。実際「ええっ!?」って言っちゃってたし。観にきてた人からは、「手を振ったのに無視された」って言われたし。すみません私あの時観客席じゃなくて虚空見てました……。これも白状するんですけど私小さい頃から虚空ばっかり見ている子供で、緊張すると周りの音も遠くなるし自分が「気分じゃない時に」愛想よく振る舞うことが極度に苦手なたちなんです。これ文章にするとただの社会性のない人間だな、まあいいや。
そんなわけで、ありがたくも本選進出の機会を得て、なんかよくわからないままロビーで泣いたり急いで次の日の稽古日程を決めたりで、(心が)大忙しの予選Bブロックだったのでした。
こんな言葉があります。
「仕事帰りに寄った芝居小屋で、小難しくて頭が疲れるような芝居は観たくない」
私はどちらかというと小難しくて頭が疲れるような芝居にこそ活路を見出していきたい人間なので、そういう言葉を実際に耳にしてしまうと、ちょっと困ってしまうというのが正直なところです。小難しいなんて言わないでさあ、私たちも一生懸命話すから、あなたも一生懸命耳を傾けてくれないかな……けれど一旦落ち着いて考えて見ると、お客さんはお金と時間を割いてこちらの芝居に足を運んでくれているわけで、支払ったコストに見合うだけのリターンを求めるのは、消費者として自然な感情だと思います。もりげき王は演劇のコンペなわけで、仕事終わりの社会人が集客のメイン層ならば、本来はその人たちのニーズに合わせた作品をつくるのがセオリーなのだとも。
でも、それだとどうしても自分が納得できない。
「老唖」を書き上げたとき、正直「これは盛岡の客席では受けないだろうな」ということを頭のどこかで考えていました。まず人が死ぬ。それも凄惨なやりかたで。尺は15分しかないのに淡々としたモノローグで進行するし、そもそも物語らしい物語もない。クスッとくるようなやりとりもない。不愛想で、直截で、泥臭い戯曲。それでも私は、どうしても今これを書かなければならない、このことについて人と語らなければならなかった。だって私の身の周りでは一週間に一度は葬式の仏花が立てられているし、子供たちは町を出てもはやこの土地には戻ってこない。なんの打開策もないままに日々は過ぎてゆくのに、なぜだかいつも気忙しくて、気づけば100人単位で町の人口が減っている。私は、私を取り巻く社会と、けして無関係ではいられない。西和賀町の人口はそう遠くないうちに5000人を切るはずで、町というものが少しずつほどけてなくなってゆくのに人々の生活は続いていって、新たに得るものより失うもののほうが多いはずなのに、ささやかに得たものの嬉しさを繰り返し温めながら日々を生きている。
なるか? これが。この生活の実感が、楽しい物語に?
名のある劇作家はそのあたりの塩梅が絶妙で、悲しい生活の実感を、悲しいままに留めない軽やかなユーモアを備えているものだけど、私にとってユーモアはまだやっぱり高度な概念で、「老唖」にはそのあたりの痛みが生のまま残っているような感覚があります。姉と弟はけしてわかりあえず、父を殺した姉は弟を置いて姿を消す。半端な共感なんて書いてしまったら、それこそすべて嘘っぱちになってしまう気がして。
冒頭の話に戻りますが、この戯曲は今の私と温度が近すぎて、そういう意味でも「見た人は困ってしまうだろうな」という思いでいました。おまえ劇作家である以前に演出家だろ。さもありなん……。
演出って本当に難しい。だからこそ、本選に進めたことは私の中で非常に大きな出来事でした。どこまで卑屈なんだって話になりますが、1票も入らないんじゃないかくらいのことは考えていましたから。それと同時に、貴重なチャンスをいただいたと思いました。この芝居はもっとよくできる。お芝居を通して、よりたくさんの人と対話ができる。実際に、6日の本選では戯曲に関するコメントを多くいただきまして、それだけでも勝ち進んだ甲斐があったというのものです。本番私は照明オペレーションのために卓についていたので、お客さんの反応を直接見られなかったのは残念ですが、投票結果を見るに、やっぱりお客さんにはあんまり受けていなかったようです。このへん、演出的なところでも色々と参考になりますね。
そういえば、5日の上演終了後に職場の知り合いから「芝居は優しさであり、思いやり。ひとりよがりな作劇と演出でただのマスターベーションにならないように本番も頑張れ」という内容のメッセージをいただきました。その人はわざわざ西和賀から盛岡まで応援に駆けつけてくれ、「私の作品には票を投じなかった」と教えてくれました。知り合いだから、という理由で票を投じるような方でなくて本当に良かったと、それを聞いた私はほっと胸を撫でおろしたのでした。芸術の表現とマスターベーションの違いは究極的にはあいまいだと思っていて、私は自分の作品が人にどう見られているかいまいちイメージがしづらいのですが、わざわざそういうメッセージをくれたということは、どこかしら作劇もしくは演出にひとりよがりなものを感じたということなのでしょう。このあたりは次に向けての反省材料として胸にしまっておくこととします。そういえば、審査員の方に「グロテスクな世界観なのかそうでないのか判別がつかなかった」的なコメントをいただいたのですが、私はグロテスクなものを書いたつもりはあまりなく、むしろ表向きの凄惨やグロさが取り沙汰されるような上演にはしたくないねと座組で話していたので、そこはかなり悔しかったというのが正直なところです。そうか、できていなかったか……。戯曲を書くことと演出をすることはまったく別回路の作業で、ほんと毎回苦労します。私は多分、作演兼任が向かないタイプの作家な気がします。
ところで、話し合いの段階では舞台袖で実際に鍋を煮込んで、音響の代わりにおいしい肉鍋の匂いを流そうという意見が出ていたのですが、それはあんまり軽率で露悪的だろうということでボツになりました。そういう生々しさがあってもよかったかもしれないですね。15分の短い作品なので、多少手を入れていつかまた別の演出で再演できたらいいなと思っています。西和賀でやったら、生々しすぎてちょっと嫌がられそうですが!(笑)
色々書きましたが、思いがけず二度の上演の機会をいただいたり、激励のお言葉をいただいたり、片道一時間半を駆けつけてくれた方がいたりで、忘れがたい2日間になりました。あとはこの経験を生かして、もっと面白い作品をつくるだけですね。カレーとかハンバーグとか、誰が食べてもおいしいと思えるようなメニューは提供できないのですが、刺身に対するわさびとか、炊きたてのご飯にかけるちりめん山椒とか、癖のある味だけどあったら料理がさらにうまいみたいな戯曲を細々書き続けていきたいなと思っています。またどこかで機会がありましたら、懲りずにまた観にきてやってください。
どうもありがとうございました。