勘違いはいつまで経っても勘違い
今までの人生、ずっとウロチョロと動いてきたつもりだ。それが前進だろうが後退だろうが、ただの現状維持だろうが。しかし今は後退することが自分で許せず、現状維持にも満足がいかず、かといって前進する気配もなく。自分らしくないなと戸惑っているが、これが今の自分だ。そもそも、らしいらしくないってなんだ。そんなことは置いといて一旦思いつくままに文字に起こしてみる。
22年間、思い返せば勘違いの中で生きてきた。何度も勘違いを現実にしてきた、つもりでいた。いつもの自分なら「勘違いしていけば良い」「根拠なんていらない、後から付いてくる」などと根拠もないことを言っていると思う。というか言っていた。それっぽいことを言うのは得意だった。そんな自分は嫌いじゃなかったしむしろ好きだった。
人は変わらない。いや、人は変わる。正確に言うと今の自分に人を変えるほどのエネルギーがない。自分は変わってきた。変わらないために沢山変わってきた。常にエネルギッシュに生きてきた。そこには確かに周りを巻き込む力があった。と思う。自分の力で環境や人を変えるのが好きだった。でもそれは自分の力ではなかった。運とタイミングが良かっただけだ。周りにいた人に恵まれていただけだ。1人で成し遂げれることなど今の自分にはなにもない。今までの自分なら「運とタイミングが1番大切」「運を拾い、タイミングを掴むことが1番簡単なんだ」などと根拠のないことを言っていると思う。というか言っていた。運とタイミングを掴むのは得意だった。常に無意識の範疇でセンサーを張りめぐらせていた。現に上手く生きてきたし、沢山の愛に包まれた人達に出会うこともできた。当たり前だが運とタイミングのみで掴む幸せや栄光には限界がある。自分が何を思い、感じ、言動に起こしていくかが大切である。自分は怠慢で傲慢な人間だった。
野球選手だと怠慢プレーで懲罰交代させられ翌日坊主になっている。いや誰が2020年の村田修一や
ごめんなさい野球ネタは無視してください。
常に新しいものを好み、チャレンジしてきた。仲の良い地元の友達とあえて離れ別の高校に進学、高校入学式直後に行った居酒屋バイトの面接、バンド、アコースティックギター、地元を離れ東京への大学進学、芸能事務所のオーディション、音楽のスクール、アパレル…など言い出せばキリがないしごく普通のことかもしれないが、自分の中では新しいものを求めての行動である。ただ続いているのはごく1部であり、違うと思ったらすぐに辞め、逃げるという選択も多くしてきた。それは間違いなく短所であるが、自己肯定感が高い自分はちょっぴり長所だとも思っていた。そのくらい心に余裕を持って育ってきた。支えてくれる母には頭が上がらない。自分の生活の軸を転々とするのは嫌いじゃなかった。だがいつしかその軸が自分のためではなく消去法での妥協に変わっていた。完全に本質を見失っている。
人と関わるのは好きだ。自分は社交性がある人間だと思っている。新しいコミュニティを好み、友達が増えるのは楽しい。故に人付き合いで悩むことも少なくはないが楽しくやっているつもりだ。
長い時間を共に過ごし、関係が深まれば深まるほど必然的に自分の多面を見てもらうことになる。これが1番自然で有り難いことではあるが、多くの場合、「相手の中での自分」が形成されていくとともにそれに当てはまる言動をとりにいくようになる。もちろんどれも間違いなく自分の素であるし猫をかぶることはしない。ただそこに居心地の良さを感じている。例えるなら関わる人ごとのセーブデータがフワッと存在し、誰と会い話すかによってその人とのセーブデータをその都度フワっとダウンロードする感覚。それは過ごした時間や交流の深さで常に変化していく。これはあくまでも少し大袈裟な例え話なので常にそういうことを考えて人と接しているわけではない。無意識の範疇である。
『え?お前地元ではイジられキャラだったの?全然そういう感じじゃないじゃん。想像つかないわ〜』
↑これもまた例えのセリフだが、そのコミュニティでイジられキャラではないからと言ってその人に裏があるだとか猫をかぶっているというわけではないのは言うまでもない。この程度の感覚だ。あと一応言っておくが、自分は表と裏が限りなく近い人間だ。みんな好きだ。本当に。
何も考えずつらつらと言葉を並べてしまったが、誰もが感じる人並みでごく普通な悩みがあるくらいだ。ただどんなに小さな悩みやストレスにも敏感に反応してしまう。かなり繊細だ。それが何故なのか、これについてはまた別のnoteを投稿しようと思う。
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前提として勘違いはしていけば良いしその中でも進めているならそれで良い、運とタイミングは大切だしこれからも掴んで逃したくない、人との付き合いも楽しく平和にやっていく。(前提を最後に言うな)
ただその中で 「今」 何かが分からなくなり、見えない壁にぶつかり動けずいるので、今まで自分がやってきたことが不正解だと思い込んでしまっているだけだ。ここまでは理解できている。大丈夫だ。そういう時期なのだ。色んな形でこの気持ちを消化し、次の動きに繋げることが今の自分がするべきことである。動けずいるからこそ、普段当たり前のように動いてあるものを立ち止まって見ることができる。
「直視すればそれまで見過ごしてたものに気づく。」
好きなアニメに出てくる言葉だ。今すごく大切な時間を過ごしていると思わせてくれる。動かない景色を目に焼き付け、また歩き出したときに新しいものを見つけたい。
結局なにを伝えたいのか、自分を肯定しているのか否定しているのか分からない文になってしまった。そもそも日記のような感覚で一貫性のない内容を書き留めているのでこの終盤まで読んでくれている人がいるかどうかも怪しい。この段階で一度最初からこの文を読んでみたが本当になにが言いたいのか分からなくて焦っている。まぁいいや。
次に進むための明確な答えはなにも出ていない。だがその都度感じたことを自分なりに分解して向き合うことで気付かぬうちに現在地は変わっていくのかもしれない。今までもそうだったように。
勘違いはいつまで経っても勘違い。
勘違いを現実にする。という勘違いを続けていく。